琴繭姫擬態録

大黒学

目次

第一章――城塞都市
第二章――出土品
第三章――妖怪

第一章――城塞都市

八日間の嵐が去り、久々に姿を見せた太陽は、西の空の低い 位置にあった。監視塔の長い影が、長方形の運動場に対角線を 描いている。運動場では、強制作業の開始を待つ多くの囚人たちが、 のんびりと太陽の光を浴びていた。

歳玄は、周囲の囚人たちの声を聞きながら、群青の空を 背景にして聳えている監視塔を見上げた。蟹倉島の刑務所に 収監された受刑者は、いかなるときも機械の目によって監視され、 行動を分析されている。少しでも挙動に不審な点のある 囚人がいれば、そいつは、次の瞬間には麻酔銃の 餌食になっているだろう。

「おい、歳玄」と誰かが背後から呼んだ。

振り向くと、運動場を横切って、鮮曜という看守が 近付いてくるのが見えた。

「今日、補給物資の輸送機で所長が来る」と鮮曜は言った。 「購入希望書籍の申請書を出すなら、今のうちだぞ」

「わかった。すぐに出す」そう言って、歳玄は自分の 独居房に向かった。

ほとんどすべての受刑者は、電脳空間への接続を 禁止されている。したがって、紙に印刷された本は、知識欲を 満足させるための唯一の手段だ。しかし、どのような本でも自由に 読むことができるというわけではない。電脳犯罪で収監されている 歳玄の場合、電脳に関連する書籍の申請に対しては、再犯を 誘発するおそれがないかどうか厳しく審査されるのが常だった。

鮮曜は、歳玄が差し出した申請書をちらりと見て、顔を しかめた。「たぶん、このうちの半分ぐらいは 却下されるだろうな」

「俺の社会復帰のためには、どれも必要だ」

「残念だが、お前は、刑期を終えたのちも電脳空間への 接続は厳しく制限されることになるだろう。別の商売に 鞍替えすることを考えたほうがいいぞ」そう言い残して、鮮曜は 管理棟の方向へ去っていった。

歳玄は、ふたたび運動場に出て、陽光の中をゆっくりと 歩いた。そして、ひとりの囚人の前で立ち止まり、話しかけた。

「やあ、新入り」

その若い男は、三日前、猛烈な嵐の最中に重力機で蟹倉島へ 送られてきたのだった。その次の日、歳玄は、その男が自分と同様に 電脳犯罪で懲役刑に処せられたのだという噂を聞いた。

「俺の名は歳玄」

「私は群傾と言います。あんたのことは知ってますよ」

「俺の何を知ってる」

「伝説的な凄腕のクラッカー。しかし、四年前に仲間に 裏切られて警察の手に落ちた」

「あれは仲間じゃない。潜入捜査官だったんだ」と歳玄は 言った。当時の敗北感がかすかに蘇ってくる。「お前も クラッカーだったそうじゃないか。どんなドジを踏んでここへ 来たんだ」

「自分の能力を超えてるということに気付かないで、危険な 場所に侵入してしまったんですよ」

「危険な場所?」

「ほら、あそこですよ。建設省と玉垣大学とが共同で 進めてる極秘のプロジェクト」

歳玄も、過去にそこへ侵入したことがあった。 七年前のことだ。侵入は、拍子抜けするほど容易だった。しかし、 何かがおかしいと歳玄は感じた。こちらの手口がどこかで 分析されているかのような気配がする。巧妙な罠に違いなかった。 歳玄は、雇い主が望んでいたものをそこから 取り出すことができないまま、撤退せざるを得なかった。

「どうしてまた、そんなところへ」歳玄は尋ねた。

「単なる好奇心ですよ。誰かに依頼されたわけじゃない」

「それで、どこまで侵入できた」

「かなり奥まで行きましたよ。普通の企業や官庁なら 最高機密が保管されてるような場所までね」

「そこに、何があった」

「機密らしきものは何もありませんでした。さらに奥へ 進もうとしたときに身柄を拘束されたんで、結局、 プロジェクトについては何もわからずじまいですよ」

強制作業の開始を告げるサイレンが鳴り響いた。囚人たちは 一斉に駆け足の姿勢で作業棟へ向かう。歳玄と群傾も同じ方向へ 急いだ。

*

昼食ののち、歳玄はふたたび運動場に出ていった。 太陽(固有名「契沖」、恒星カタログ番号TSC47731、 スペクトル型G4)は、朝食後に群傾とそこで話をしたときはまだ 西の空にあったが、それから経過した六時間のうちに水平線の彼方へ 沈んでしまっていた。人工の照明に照らし出された運動場から 見上げると、わずかな数の星が見えた。

群傾が近付いてきて言った。「ここでは、端末に 触らせてもらえる機会はあるんですか」

「いや、まったくない。当然だろう」

群傾は落胆したようだった。「ほんのわずかでも 触らせてもらえる機会があるかと期待してたけど、 甘かったみたいですね。歳玄さんはつらくないんですか」

「最初のうちはつらかったが、今はそうでもない。 心配するな。お前もすぐにここの生活に慣れる。そうすれば、 電脳空間に戻りたいという気持ちなど、どこかへ 行ってしまうだろう」と歳玄は言ったが、その言葉が事実ならば どれほどありがたいだろうと思わざるを得なかった。

「そうだといいんですけどね。でもまあ、私の刑期は 二年だから、しばらく我慢すればいいだけだ。歳玄さんは、 あとどれくらいあるんですか」

「これからまだ八年だ」

「そんなに長いんですか。だとすると、もとの商売に 戻るのは至難の業でしょうね。クラッキングのテクニックというのは めまぐるしく変化してますからね。私の二年の刑期でさえ、 取り残されるには充分ですよ」

「その点については、俺は心配していない。クラッキングの テクニックと言っても、所詮は情報に過ぎない。新しく仕入れれば 済む話だ。それよりも、クラッカーにとって大切なのは才能だ」

「才能ですか」群傾は顔を曇らせた。「私も、かつては 自分にクラッカーの才能があると思ってたけれど、今度の一件で、 ちょっと自信がなくなりましたよ」

「だったら、足を洗うことだな」

「それができればいいんですけどね」と言って群傾は 苦笑した。「依存症なんです。クラッキングの」

歳玄は、運動場を囲んでいるフェンスの網の目の彼方に 広がっている真っ暗な空と海を眺めた。白とオレンジと緑の光点が 接近してくる。補給物資を積んだ輸送機だろう、と歳玄は思った。

*

誰かが自分を呼んでいるような気配がして、歳玄は目を 覚ました。時計の針は午前一時四十分を指している。

「起きろ、歳玄」

若い女の声だ。独居房の扉のほうから聞こえる。そちらへ首を めぐらすと、扉の覗き窓が開いていて、二つの眼がこちらを 見ている。歳玄は寝台から跳ね起きて扉に近付く。覗き窓の 向こうに、覆面で隠された人間の顔がある。こちらを見つめている 双眸は、女というよりもむしろ少年のようだ。監視機構は 作動していないのだろうか。

「これから、お前を脱獄させる」その女は言った。

女は、扉の覗き窓から何かを歳玄に手渡した。携帯型の 端末だ。看守の誰かから奪ったのだろう。側面に 「蟹倉島刑務所」という文字が刻印されている。

「それで、この扉を開けろ」と女は言った。

「扉を開けるのはいいが、俺がここから出れば、自動的に 麻酔銃で撃たれることになる」

「心配は要らん。監視機構はすでに破壊してある」

端末に触れるのは四年ぶりだったが、独居房の扉を制御する 方法はすぐにわかった。金属音とともに鍵がはずれ、扉が開いた。 歳玄は、恐る恐る廊下に足を踏み出した。しかし、女が 言ったとおり、麻酔銃は作動しなかった。女は、手招きをして廊下を 進み始めた。全身を黒の忍者装束で包んでいる。身長は歳玄の 胸ぐらいまでしかないが、均整の取れたしなやかな肢体だ。

廊下の端にある鉄格子の扉が開いたままになっている。錠前の 部分は、レーザーか何かで焼き切られていた。扉から出たところに、 二人の看守が倒れている。

「殺したのか」と歳玄は訊いた。

「いや、意識を失っているだけだ」

獄舎から運動場へ出るための扉は、まだ鍵がかかっていた。 歳玄は端末を操作して扉を開く。

運動場を囲むように並んでいる水銀灯の光を浴びながら、 歳玄は、女のすぐうしろを黙々と歩いた。東の空は、すでに夜の 色ではなく深い藍色に変わりつつある。女は、運動場の中央で 立ち止まった。

「ここからどうやって逃げるつもりだ」と歳玄は言った。 「ここは絶海の孤島だ。補給物資の輸送機も帰ってしまっている。 船も重力機もない」

女は何も答えずに、左腕の手首を口に近付けて、「よし、 いいぞ」と言った。

小型の重力機が不意に山影から現われ、音もなく 接近してきた。胴体に「滝川運輸」と書かれている。重力機は、 ゆっくりと回転しながら高度を下げ、二人の前に着地した。

操縦席の横の扉が開いた。女は、それに乗れと歳玄に命じて、 あとから自分も乗り込んだ。

「発進させろ」と女が言う。

窓の外に見える監視塔や獄舎や山影が大きく傾いて、急速に 背後へ退いていった。

操縦桿を握っているのは、がっしりした体格の男だった。女は 操縦席のうしろの席に座り、通路をはさんだ反対側の席を無言で 指差した。座席の背後は広々とした荷物室になっているが、荷物は 何も積まれていない。そのさらに背後には大きな窓があり、灯火を ちりばめた蟹倉島が見える。

蟹倉島の灯火は、しだいにかすかになり、やがて 見えなくなった。横を見ると、女が覆面をはずすところだった。 女は、厳しい女教師のように口元を引き締めて、歳玄を見た。

「私の名は琴繭」と女は言った。「今日から、私がお前の 雇い主だ」

惑星〈蕪村〉(公転周期三百二十九日十六時間、 自転周期三十三時間二十八分)には、七つの大陸と五つの 大洋がある。蟹倉島は、蕪村の最大の大洋である甘露洋のほぼ 中央に位置しており、どの大陸からも四千キロ以上離れている。

歳玄を乗せた重力機は、海面から数十メートルの高度を 維持して、北西に向かって進んでいる。窓の外がしだいに 明るくなってきた。東の空は茜色に染まっている。

琴繭は、操縦席の男を、典摂という名前で、自分の 運転手兼用心棒だと歳玄に紹介した。典摂は、彼方の空と海、 そしてレーダーの画面に、常に神経を尖らせている。機械の 整備工のような作業服を着ているが、その下にはかなり頑丈な 筋肉がありそうだ。

典摂が、うしろを振り向いて言った。「何かが接近してくる」

琴繭と歳玄は、レーダーの画面を覗き込んだ。三つの機影が 現われている。北東の方角からこちらに向かって、かなりの高速で 接近しつつある。

無線のスピーカーから、合成された女性の声が流れ出た。 「こちらは警察です。すみやかに停止してください」

「出動が早すぎる」と琴繭が言う。「これは大きな誤算だ」

「誤算だって?」歳玄は怒りを込めて言った。「俺を 脱獄させるなら、もっと緻密な計画を立ててから 実行してもらいたいもんだな。それで、この重力機には 武装があるのか?」

「そんなものはない」と琴繭はつれなく言う。そして、 歳玄の座席の横に取り付けられている端末を指差す。「お前が、 それを使って何とかすればいいだろう」

「まさか、これを使って奴らを追い払えと 言うんじゃないだろうな」

「その、まさかだ」

「言っとくが、扉の開け閉めとは難易度が格段に違う。 かなりの時間が必要だ。おそらく、こちらが奴らを 制御できるようになるよりも、奴らが俺たちを撃墜するほうが 先だろう」

「撃墜だと?」琴繭は顔をしかめた。「警察がそんな 荒っぽい手段を選ぶとは思えないが」

「考えが甘いな。お前たちが脱獄させたのが、政治家や 財界人どもから蛇蠍のごとく嫌われているクラッカーだということを 忘れるな。お前たちは、俺を抹殺する絶好のチャンスを奴らに 与えたわけだ」

琴繭はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。 「ともかく、私にはここで停止する意志はない。奴らの攻撃を かわすことがお前にできないのなら、我々はここで奴らに撃墜されて 死ぬしかないわけだ」

端末のスイッチをひねる。そこに現われたのは、運送会社の 社員が貨物についての問い合わせをするために使う画面だった。 歳玄はそれまで、重力機の胴体に記されていた「滝川運輸」という 文字を単なる偽装だと思っていたのだが、その画面を見た瞬間、 それが誤解だったということに気付いた。歳玄は、もっと低レベルの コマンドを入力することができる画面を出そうと必死になる。背中の 皮膚に悪寒のようなものが走った。

特殊な用途の画面から抜け出すことはできたものの、そこはまだ 運送会社の内部空間だった。歳玄は、そこから外部の空間へ出る 抜け道を探そうとするが、なかなか見つからない。ようやく外へ 出ることができたときには、すでに、歳玄たちの乗った重力機は 飛来した三機に囲まれてしまっていた。右手前方に一機、左手前方に 一機、そしてもう一機が背後にいる。三機とも、軍用の無人偵察機を 改造した機体だ。

ふたたび無線で警告が来た。「すみやかに停止してください。 したがわない場合は撃墜します」

典摂は、警察からの警告を無視して、なおも一定の速度で 重力機を進めている。歳玄は、警察の重力機を管轄している区域に 侵入しようとするが、彼が知っている抜け道の大部分は、彼の 服役中にすでに塞がれてしまっているため、かなり強引な手段を 使わざるを得ない。歳玄は手の甲で額の汗をぬぐった。

端末のパネルが、窓から差し込んだオレンジ色の光を反射した。 水平線から太陽が昇ったらしい。

重力機を管轄している区域の中に侵入した歳玄は、緊急発進の プログラムで動作中のものを探した。蟹倉島の北西七百キロの海上を 移動中の三機を制御しているプログラムは、すぐに見つかった。 歳玄は、そのプログラムをスクリーンに表示させた。撃墜の警告から 二分後に、最初の威嚇射撃をすることになっているようだ。 歳玄たちの背後にいる奴が、すでに威嚇射撃の準備を始めている。

右側の窓の外を閃光が走った。機体がぐらりと揺れる。

「おい、大丈夫なのか。早くしろ」と琴繭が苛立たしげに 言う。

「心配するな。威嚇射撃が三発あって、命中するのは 四発目だ」と歳玄はうわずった声で言う。

偵察機の操縦系統をプログラムによる制御から 切り離そうとしているのだが、そのためには、何重にも重なっている クラッカー対策の防壁を越えなければならない。二発目の ミサイルが、今度は左側の窓の外で炸裂した。三発目は、歳玄たちの 重力機を追い越してさらに前方へ飛行したのちに爆発した。 そののち、ようやく操縦系統が自由に操作できるようになった。 四発目のミサイルは、すでに歳玄たちの乗った重力機を 追尾するように設定されている。歳玄はその設定を解除して、右側の 僚機に照準を定めた。

右手前方の偵察機が、オレンジ色の火球となって四散した。次は 左側の奴を狙ってミサイルを発射する。そいつはミサイルから 逃れるために旋回しようとしたが、無意味だった。

そして歳玄は、背後の偵察機の重力エンジンを停止させた。 巨大な水柱が背後の海面に上がり、続いて爆発が起きた。歳玄は、 座席に深々と沈み込んで、大きく息を吐いた。

「よくやった、歳玄」琴繭は平然として言う。「だが、 今度からはもっと手際よくやれ」

*

三人を乗せた重力機は、なおも北西の方向へ進んでいく。

歳玄は尋ねた。「それで、俺たちは今、どこへ 行こうとしてるんだ?」

「とりあえず我々の本拠地に戻る」と琴繭は答えた。

「本拠地とはどこだ」

「蛾鱗璽城。知っているか」

「ああ。少なくともその名前は聞いたことがある。だが、 方角が違うようだぞ」

「まっすぐにそこへ行くわけにはいかない。我々がそこの 人間だと気付かれてはまずいのだ」

蛾鱗璽城についての歳玄の知識は、ほとんどないに等しかった。 知っているのは、それが城と言うよりもむしろひとつの 都市なのだということ、南安藤大陸の奥地にあるということ、 数百年にわたる増築と改築によって石垣や城壁や楼閣が複雑に 組み合わさってできた城塞構造物だということ、それぐらいだった。

「それで、我々の仕事は何だ」と歳玄は尋ねた。

琴繭はそれには答えず、「お前がすべてを知っている 必要はない。ただ私の命令にしたがっていさえすればいいのだ」と 言った。

歳玄は、いつのまにか重力機が停止していることに気付いた。 海面から二メートルほどの高さのところで浮遊している。周囲を 見渡してみたが、陸地らしきものはまったく見えない。

「歳玄、仕事だ」と琴繭が言う。「この重力機は、運送会社の 駐機場から我々が無断で借用したものだ。こいつが無人で自分の 駐機場に戻るように自動操縦の設定を書き換えろ。加えて、こいつが 駐機場に到着した瞬間に、それまでの飛行記録がすべて 抹消されるような仕掛けをしておけ」

「無人で?」と歳玄は尋ねた。「我々はどうする」

「ここで乗り換えだ」

「何に乗り換えるんだ? 海と空しか見えないが」

すると、典摂が床下の収納スペースの扉を開きながら、 「これだ」と言った。そして、そこから取っ手のついた白いケースを 引っ張り上げた。

「何だ、それは」

「まあ、見ていろ」典摂は、そう言って重力機の扉を開き、 白いケースをそこから放り投げた。海面に落ちたケースは 瞬くうちに膨張し、全長二メートルぐらいのボートになった。

「まさか、あれで陸地まで行くと言うんじゃないだろうな」

「そんなわけないだろう」と典摂が言う。「ここでしばらく 漂流するだけだ。別の船と落ち合う手筈になっている」

琴繭が立ち上がり、開いた扉の前まで行って振り向いた。 「では、我々はボートで待っている。お前も、早く仕事を片付けて ボートに乗り換えろ」そう言って、琴繭はひらりと海中に身を 投じた。そして、そのあとに典摂が続いた。

歳玄は、重力機の自動操縦機構を端末から呼び出した。そして、 この重力機が常駐場所にしている駐機場を目的地として 設定しようとして、ふと、指の動きを止めた。琴繭と典摂をここに 残して、ひとりだけこの重力機で自分の好きなところへ 飛んでいく、という選択肢の存在に気付いたからだ。歳玄は、 しばらく迷っていた。しかし、彼は結局、重力機の航路を設定し、 その扉から海に飛び込むという道を選んだ。

飛び去っていく重力機を見つめながら、歳玄は、自分がなぜこの 道を選択したのか、その理由を考えた。琴繭が自分に 与えようとしている仕事に興味を持ったからなのか、それとも 蛾鱗璽城という未知の場所に対する憧憬なのか、それとも自分を 脱獄させてくれたことに対して恩義を感じたからなのか。それらの 理由はどれも否定できないものだったが、しかし、それらよりも さらに大きな理由が、まだどこかに隠れているような気がした。

「おい、歳玄」と典摂が呼んだ。「早くボートに 上がって来い。鮫に食われたらどうする」

「鮫だって?」と歳玄は言う。「地球の生物の鮫のことか?  そんなものがここにいるわけないだろう」

「いや、わからんぞ」典摂はにやりと笑う。「初期の 植民者たちは、生態系を改造するためにさまざまな地球の生物を ここへ運び込んだが、その完全な記録は残っていない。その中に鮫が 含まれていた可能性も、ないとは言えない」

冗談だろうとは思ったが、歳玄は急いでボートに上がった。

琴繭が、遥かな水平線を指差した。「見ろ。予定どおりだ」

目を凝らすと、かすかな塵のような船影が見えた。その船影は、 しだいに三人のボートに向かって接近し、すぐそばで停船した。 船首付近に「第三捜神丸」と船名が書かれている。漁船のような 船名だと歳玄は思ったが、その船は漁船ではなく、巨大な コンテナ船だった。

「歳玄」と琴繭が言う。「港に着くまで、時間は たっぷりとある。そのあいだに、蛾鱗璽城についての知識を頭に 詰め込んでおけ。それから、私も典摂も蛾鱗璽城の住人だ。 疑問点があればいつでも訊くがよい」

歳玄は、コンテナ船のほうに顔を向けたまま横目で琴繭を見た。 琴繭は、甲板の船員たちの動きを黙って見つめている。歳玄には、 琴繭の端整な横顔が、わずかながら微笑んでいるように思えた。

太陽はまだそれほど高い位置には昇っていなかったが、甲板の 上の空気はすでに真昼のように熱せられていた。歳玄は、それまで 意識の奥底に追いやられていた喉の渇きが急速に表層に 浮上してくるのを感じた。制服を着た小太りの男が、笑顔を 浮かべながら歳玄たちのほうに歩み寄ってきた。

「ご無事でなによりです、姫君」と、男は琴繭に向かって 言った。「私が第三捜神丸の船長の縁墨です」

琴繭の顔には、少し前に見せた微笑のかけらも 残っていなかった。不機嫌そうに見える表情で、「そうか。では、 よろしく頼むぞ」と言った。

船長は、歳玄のほうへ向きを変えながら、「あなたが 歳玄さん?」と尋ねた。

歳玄が軽くうなずくと、船長はうれしそうに言った。 「クラッカーの世界では知らない人がいないほど 有名なんだそうですね。そのような方を本船にお迎えできるとは、 なんという光栄でしょう」

「俺は、ほかのクラッカーどもと同様、単なる犯罪者だ」 と歳玄は言った。「犯罪者を乗せたからと言って、 自慢にはなるまい」

「いえいえ、決してそんなことはございません。あなたは、 琴繭さまが必要とされ、みずから獲得のために行動されたほどの 方ですから」縁墨は、そう言ってから琴繭のほうに顔を向けた。 「さて、それでは客室にご案内いたしましょう」

船長は、まず琴繭と典摂をそれぞれの客室に案内し、それから 第三の客室のドアを開いて、「歳玄さんはこの部屋を お使いください」と言った。歳玄が中に入ると、船長は、「では、 どうぞごゆっくり」と言ってドアを閉じた。

歳玄は、引き寄せられるように冷蔵庫に歩み寄り、大型の ボトルに入った飲料水を取り出して、一気に飲み干した。それから、 自分の周囲のさまざまなものに注意を向けた。歳玄に与えられた 客室は、広々としていて、コンテナ船の船室とは思えないほど 高級感のある内装が施されていた。奥の壁には舷窓があり、水平線が ゆっくりと揺れている。衣装戸棚の中には着替えが準備されていた。 そして、机の上には洒落たデザインの端末が置かれている。

歳玄は机に近寄って、端末のスイッチを押した。スクリーンが 明るくなり、電脳空間の一般的なサービスを選択するメニューが 表示された。残念ながらクラッカー仕様の端末ではなさそうだ。

歳玄は囚人服を脱いでシャワーを浴び、衣装戸棚の中の衣服を 着た。そのとき、電話のベルが鳴った。

「縁墨です」と受話器からの声が言った。「今日の朝食は、 皆さんとともに船長室で食べたいのですが、いらっしゃいますか」

「ああ、そうさせてもらおう」

「では、八時にお迎えに上がります」

歳玄は電話を切って、時計を見た。八時まで、まだ二十分ほど 余裕がある。彼はふたたび端末に向かい、蛾鱗璽城についての知識を 収集する式神を書いて、電脳空間に放った。「式神」という言葉は ハッカーやクラッカーが使う隠語のひとつで、電脳空間の内部を 自律的に動き回ってさまざまな活動をするプログラムのことだ。

船長は、歳玄を客室から連れ出したのち、典摂の部屋と琴繭の 部屋へ順番に立ち寄った。部屋から現われた琴繭は、髪をしっかりと 結い上げ、淡い水色の小袖を着て、ふわっとした黄土色の帯を 締めて、その帯を脇腹のところで結んでいた。

船長室には、白い布が掛けられたテーブルがあり、その上には すでにさまざまな料理が並べられていた。船長は上座の椅子を引いて 琴繭を座らせ、典摂と歳玄の席を指で示した。そして自分は典摂と 歳玄の正面の席に座った。

食事が始まった当初、会話は、ほとんど縁墨と琴繭のあいだで 交された。会話の内容は、共通の知人の動向、蛾鱗璽城の海運事業の 現状、というようなものだった。琴繭は相変わらず無表情だったが、 しかし会話をいやがっているようには見えず、むしろ積極的に 発言していると言っていいほどだった。

船長と琴繭との会話が一段落したとき、典摂が歳玄に 話し掛けた。

「歳玄、お前は光琳7号の事件を知っているか」

「いや、知らない」歳玄は、海老の皮をむく手を休めて 答えた。「おそらくクラッカーかハッカーが関係する 事件なんだろう。刑務所の中で俺が読むことのできる新聞は、 そのような記事が切り抜かれて穴だらけになってるんだ。で、どんな 事件なんだ?」

「そのとおり、クラッカーが関係する事件だ。光琳7号は 知っているか」

「よくは知らないが、光琳の人工衛星か何かだろう」

光琳というのは、契沖の周囲を公転している惑星のひとつだ。 光琳の表面にはわずかな氷と希薄な大気しかないが、観測のための 人工衛星が何個か、その周囲を公転している。

「そのとおりだ。光琳7号は、惑星物理研究所が光琳の 観測を目的として軌道に乗せた人工衛星だ」

惑星物理研究所というのは、契沖の周囲を公転している それぞれの惑星に対する調査を目的として蕪村の政府が設置している 研究機関だ。

歳玄は、海老を口の中に放り込んでから言った。「それで、 事件というのは何だ」

「半年ほど前のことだ。光琳7号が惑星物理研究所からの コントロールを受け付けなくなったのだ」

「それがクラッカーの仕業なのか?」

「そうだ。単なる故障ではなく、惑星物理研究所ではない 別の何者かによるコントロールしか受け付けないように 改造されてしまったのだ。惑星物理研究所の所長は、何者かによって 光琳7号のプログラムが書き換えられたらしいという見解を 述べている。コントロールを受け付けなくなったと同時に、 光琳7号から暗号化されたデータが 送られてくるようになったことも、その見解を裏付けている」

歳玄は、大皿に盛られたサラダを自分の皿に移しながら尋ねた。 「その事件と我々の仕事とのあいだに何か関係があるのか?」

「まだわからない」と典摂は答えた。「だが、犯人が 誰なのかということについては興味がある。お前には、 何か心当たりはないか」

「そのクラッカーを雇ってるのが誰かということか?」

「そうだ」

歳玄はサラダを口に詰め込み、それを咀嚼しながら考えた。 犯人たちは、プログラムを書き換えることによって、自分たちの 目的に沿ったデータを光琳7号に送らせている。しかし、 その目的とは何だ。光琳の表面にあるものと言えば、岩と氷だけだ。 研究者以外の人間にとって、そのデータにどんな意味があるのか。

「背後関係については見当も付かない。しかし、雇われている クラッカーから、ほかのクラッカーに情報が流れている 可能性はある。報酬を保証してくれるなら、探りを 入れてやってもいいぞ」

歳玄は、そう言ってちらりと琴繭のほうを見た。

「報酬は出す」と琴繭は言った。「ただし、クラッカーの 雇い主が判明した場合だけだ」

「わかった」と歳玄は言った。そして、自分の正面に 座っている縁墨のほうに視線を移した。「ところで、船長」

「はい、何でしょうか」と、縁墨は笑顔で答えた。

「端末のことで、頼みがある。俺の部屋にあるタイプは、普通の 使い方をするなら操作が楽でとてもいいんだが、できることが 制限されていてクラッキングにはちょっと使いにくいんだ。もう少し 自由に何でもできる端末があればうれしいんだが、この船には、 あのタイプしかないのか?」

「そうですねえ」と言って、縁墨は笑顔を浮かべたまま しばらく考えているようだった。「二か月ほど前に定年で退職した 航海士が、ちょっとしたハッカーのような人だったんですよ。彼が 使っていた端末が、まだこの船に残っているはずです。歳玄さんの お気に召すかどうかわかりませんが、それを部下に運ばせましょう」

「ありがたい。よろしく頼む」

船長は食卓から離れ、自分のデスクから受話器を持ち上げた。 端末の件を誰かに命令している様子だ。

朝食ののち、船長と個人的に話があると言う琴繭を船長室に 残して、典摂と歳玄はそれぞれの部屋に向かった。その途上で、 歳玄は典摂に尋ねた。

「船長は琴繭のことを『姫君』と呼んでいるが、 琴繭というのはそういう身分の高い人間なのか」

「そのとおりだ。蛾鱗璽城の次期城主候補のひとりだからな」

「次期城主候補?」奇妙な言葉だと歳玄は思った。「現在の 城主の娘だということか」

「いや、それは違う。蛾鱗璽城の家督相続では、 血縁関係というものは意味を持たない。傑出した才能を持つ人間を 幼少のあいだにスカウトして英才教育を施し、その中から城主を 選定するんだ」

「そういう重要な立場にある人間が、自ら、生命の危険をも顧みず 刑務所から犯罪者を脱獄させるなんて、変じゃないのか」

「彼女には特殊な能力がある。以前から、主君の密命を受けて、 そのような危険な任務に従事してきているんだ。驚くには値しない」

「俺を脱獄させたのも、蛾鱗璽城の城主の密命なのか」

典摂は、自分の部屋の前で立ち止まり、そして答えた。「いや、 違う。これは彼女の個人的な行動だ。彼女が個人的な目的で このような工作活動を実行したのは、俺が知る限り、これが 初めてのことだ」

歳玄が自分の部屋にたどり着き、ドアを開きかけたとき、廊下の 端に、両手で端末を抱えた船員が見えた。歳玄はドアを開いたまま その船員の到着を待ち、端末を受け取った。

端末を机の上に置いて、歳玄は、その黒々とした物体を いつくしむように眺めた。それは、経塚製作所というメーカーが 作っている端末で、「亀石」という愛称で呼ばれているものだった。 洗練とは程遠い武骨な外観だが、ハッカーやクラッカーからは高く 評価されている。

歳玄は、船室の内装とほどよく調和した秀麗なデザインの 端末からケーブルを抜き取り、その端末を部屋の隅へ移動させた。 ケーブルを亀石に接続して、スイッチを入れる。スクリーンの上を 殺風景な文字が流れていき、最後に、電脳空間への接続を告げる メッセージが現われた。歳玄は、光琳7号の事件についての情報を 収集する式神を書いて、電脳空間に放った。そして次に、 一時間ほど前に放った、蛾鱗璽城についての知識を収集する式神を 召還して、それが収集した知識を報告させた。

蕪村という惑星には二つの国家がある。ひとつは蕪村という 名前の国家であり、南安藤大陸を除いた残りの六大陸を 領土として統治している。菊地大陸の西海岸にある緑祭美という 都市が蕪村の首都である。そして、惑星〈蕪村〉のもうひとつの 国家は、南安藤という名前である。南安藤大陸は、この南安藤という 国家の領土である。南安藤の首都は、南安藤大陸のほぼ中央に 位置しており、蛾鱗璽城と呼ばれている。

現在、つまり蕪村暦二百四十七年の時点で、惑星〈蕪村〉には 約三千万人の人間が居住しているが、その人口のうちの約八割は、 快適な気候を持つ菊地大陸と北安藤大陸に集中している。そして 残りの二割も、大多数は北曽我大陸と西條大陸に分布していて、 筑紫大陸、南曽我大陸、そして南安藤大陸は、ほとんど無人に近いと 言っても過言ではない。

筑紫大陸と南曽我大陸の人口が希薄である理由は、 その気候である。筑紫大陸は蕪村の南極にあり、氷雪に 閉ざされている。南曽我大陸はきわめて乾燥していて、全土が 砂漠で覆われている。それに対して、南安藤大陸の気候は、 菊地大陸や北安藤大陸に比べると高温かつ多湿であるが、人間の 居住に適さないほどではない。南安藤大陸の人口が希薄である 理由は、気候ではなく、その密林の中に棲息しているさまざまな 危険生物の存在である。

南安藤大陸の危険生物の中で常に筆頭に挙げられるのは、 老星という肉食獣である。老星は、体長三メートル前後の四足獣で、 地球の虎や豹をさらにスマートにしたような美しい形状を 持っている。人間にとって老星が恐るべき獣である理由は、 その動作の敏捷さ、弾丸の貫通を許さない強靭な皮膚、そして鋭利な 刃物のような鉤爪である。老星の鉤爪は、厚さ数センチの 装甲板でさえ楽々と引き裂くことができると言う。

老星のほかにも、南安藤大陸の密林にはさまざまな危険生物が 棲息している。優美な翼で大空を飛翔し、急降下して鋭い錐のような 嘴で獲物を串刺しにする則善や、接着剤のような性質を持った液体を 放出することによって獲物から動作の自由を奪う積腎や、動物の 皮膚の下に卵を産み付け、孵化した幼虫が内臓を食い荒らす響埋や、 密林の一部分に擬態して、獲物が自分の領域に侵入した瞬間にそれを 包み込んでしまう忘熟など、枚挙に暇がない。

蛾鱗璽城の歴史は、そのような危険生物が跳梁跋扈する 南安藤大陸の密林に分け入った一人の探検家が、体長一センチにも 満たない昆虫のような生物を発見したことに始まる。惑星〈蕪村〉が まだ日本の植民地だった時代の出来事である。探検家は、その生物を 龍璧虫と名付け、標本を持ち帰った。龍璧虫の標本を見た 人々の中には、その生物を捕獲して地球に輸送することが 商売になるのではないかと考え、それを実行に移した者もいた。 その美しい色、透明感、光沢、そしてさまざまな器官の緻密で均整の 取れた構造は、地球の人々を魅了した。やがて、その生物の屍骸を 加工した装飾品は、あたかも宝石であるかのごとく高額で 取引されるようになった。

龍璧虫の捕獲、加工、輸送などに携わる人々は、南安藤大陸の 奥地にひとつの都市を築いた。その都市は、老星に代表されるような 巨大で破壊力の強い生物による襲撃から住民を守るため、 要塞のように堅固な構造を持っていた。そして、いつのころからか、 その都市は蛾鱗璽城と呼ばれるようになった。

惑星〈蕪村〉では、かつて、地球外の知的生命による文明が 繁栄していた。彼らは人類が蕪村に到達する遥か以前に 絶滅してしまったが、彼らが建設したさまざまな建造物は、蕪村の 各地に現在もなお遺跡として残されている。それらの大多数は 菊地大陸と北安藤大陸に分布しており、それ以外の大陸で発見された 遺跡は、それほど多くない。南安藤大陸では、知的先住生命の遺跡が これまでに一箇所だけ発見されている。蛾鱗璽城は、南安藤大陸の 奥地で発見された、その唯一の遺跡を中心として建設された。

蛾鱗璽城は、堅固な石垣や鋼鉄の装甲に守られてはいたが、 内部の住民が安心して暮らすためには、それだけでは不充分だった。 蛾鱗璽城の歴史の初期のころは、内部に侵入した生物と住民との 戦いの歴史だったと言ってよい。そこで、蛾鱗璽城の当時の城主は、 南安藤大陸の生物について研究する機関を設立し、蕪村の各地から さまざまな専門家を集めた。

蕪村暦三十年ごろから地下活動を続けていた 蕪村解放戦線というゲリラ組織は、七十六年、宗主国である 日本に対して蕪村の独立を宣言した。この叛乱に対し、日本政府は 武力による鎮圧を決議し、多数の巡洋艦と駆逐艦を蕪村に派遣した。 永年にわたって日本政府による強圧的な植民地支配に耐えてきた 蕪村の住民たちは、解放戦線を支援し、徹底的な抗戦を誓った。 こうして開始された独立戦争は、蛾鱗璽城をも否応なく 巻き込むことになった。

蕪村暦七十七年四月、日本軍は、南安藤大陸に大規模な兵力を 降下させた。南安藤大陸を選んだのは、ほかの大陸よりも人口が 希薄であり、容易に制圧できるだろうと判断したためである。 しかし、蕪村に降り立った部隊は、数日後には完全に 殲滅されてしまっていた。

日本軍を撃破したのは、老星や則善や積腎などの、敏捷かつ 巨大な肉食の生物だった。南安藤大陸の危険生物に関する研究は、 独立戦争の時代までに長足の進歩を遂げていた。蛾鱗璽城の人々は、 老星や則善などの何種類かの生物について、特殊な変調方式で信号を 乗せた電波を使うことによって、それらを自在に操って使役に供する 技術を確立していたのである。

その当時の城主であった嶺岳は、日本軍の艦隊が大気圏に 突入し、南安藤大陸に軟着陸したという報告を聞くや否や、 迎撃作戦の発動を命じた。そして、彼自ら、人間と巨大肉食生物とで 構成される部隊を率いて陣頭に立った。蛾鱗璽城にとって、日本軍の 侵攻はあらかじめ予想されていたことであり、作戦はすでに充分に 検討されていた。嶺岳は、シナリオのとおりに進んでゆく作戦の 推移を、ただ単に見守っているだけでよかった。一方、 日本軍のほうは、着陸したばかりでまだ体勢の整っていないところを 急襲されたのみならず、見たことも聞いたこともない獰猛な 生物による効果的な攻撃に対して、それを打ち破る手段を 持たなかった。

南安藤大陸での勝利は、蕪村にとって有利な条件で戦争を 終結させる上での大きな原動力となった。蕪村解放戦線の 議長であり、独立戦争ののちに初代の首相となった群乗は、 蛾鱗璽城の城主嶺岳に対して、その武功に対する褒賞として 蕪村政府の重臣の地位を提供しようとした。しかし、嶺岳はそれを 固辞し、その代わりとして、蕪村からの南安藤大陸の分離独立を 願い出た。南安藤大陸は蕪村政府にとってほとんど 無価値に近いものだったため、その願いは聞き届けられた。 こうして、南安藤という独立国家が成立し、蛾鱗璽城の代々の城主が その領土を統治することになったのである。

南安藤大陸には、蛾鱗璽城のほかに魚彗訓、媒酸繕という 二つの都市がある。魚彗訓と媒酸繕はどちらも海に面していて、 貿易港として機能している。魚彗訓は南安藤大陸の北端にあり、 北安藤大陸とのあいだの茎魚海峡に面している。媒酸繕は 南安藤大陸の東海岸にあり、甘露洋に面している。南安藤大陸の 現在の人口は約三万二千人で、そのうちの二万八千人が 蛾鱗璽城、三千人が魚彗訓、千人が媒酸繕の住民である。

蛾鱗璽城は、真上から見下ろすと、東西に三・三キロ、南北に 二・七キロの長方形に見える。しかし、その輪郭は一直線ではなく、 複雑に入り組んでいる。この形状は、蛾鱗璽城が明確な計画に 基づいて建設されたものではなく、永年にわたる増築と改築の 結果として形成されたものであることを物語っている。

蛾鱗璽城の人口は、蕪村暦二十年ごろに蛾鱗璽城の建設が 開始されたころから、わずかずつであるが、着実に増加してきた。 蛾鱗璽城は、工業的な施設を入れるための地上構造物を 増築していくのと並行して、住民たちの居住空間を広げるために、 地下空間の拡張も推進した。蕪村暦二百年ごろまでには、蛾鱗璽城の 地下空間の深度は、最大で六十メートルにまで 達するようになっていた。

蕪村暦二百十年ごろ、蛾鱗璽城の人口が過密化したため、 深度六十メートルよりもさらに深いところへ居住空間を広げる計画が 立案された。その工事は三年後に完成したが、その新しい 地下空間への移住を希望する住民はほとんどいなかった。そこへ 移住した住民も、十日もたたないうちに上の層へ 戻ってしまっている。現在、その地下空間は放棄され、そこに 住んでいる住民は皆無である。その理由は定かではないが、 一説によると、その深度の空間には妖怪が出没し、人間に危害を 加えるためであると言う。

*

歳玄は、端末のスクリーンに表示された「妖怪」という二文字を 見つめたまま、それが意味するものについてしばらく考えていた。 それから、新しい式神を書き始めた。その式神は、蛾鱗璽城の 電脳空間に可能な限り深く潜り込んで、蛾鱗璽城の妖怪についての 情報を、事実であるか単なる噂話であるかを問わず、徹底的に 収集するものだった。歳玄は、その式神が、少々の障壁ならば 自力でそれを乗り越えることができるように、少し時間をかけて 細かな仕掛けを組み込んでいった。

式神が完成し、それを電脳空間に放ったとき、時刻は正午の少し 前だった。昼食はどうすればいいのだろうかと思った直後に、電話の ベルが鳴った。

電話を掛けてきたのは典摂だった。昼食の準備ができたので 自分の部屋へ来い、という用件だった。

典摂の部屋には、すでに琴繭も来ていた。テーブルの上には、 さまざまな料理が並べられている。

琴繭は、席に着いた歳玄に向かって、「これから先、この船に 乗っているあいだ、食事のときは三人がこの部屋に 集まることにしよう」と宣言した。

そして、三人による昼食が始まった。

「ところで」歳玄は、大皿から自分の皿へ料理を移しながら 尋ねた。「蛾鱗璽城が、もともと先住知的生命の遺跡があった 場所に建設されたものだ、というのは本当のことか」

「それは周知の事実だ」と典摂が答えた。

「その遺跡というのは、どんなものなんだ」

「石で作られた建造物だ。用途は不明だが、我々はそれを 螺旋神殿と呼んでいる。地上部分は、一辺が約二十四メートルの 立方体になっていて、窓や装飾のようなものはない」

「その建造物の内部に空間はないのか」

「空間はある。東側の壁面にアーチ型の入口があって、内部に 入ることができる。遺跡が発見された当初、その入口は 漆喰のようなものでふさがれていたのだが、そののち、内部を 調査するために人間が通れる大きさの穴が掘られた」

「螺旋神殿という名前で呼ぶ理由は?」

「その遺跡の内部には、地底に向けて垂直に掘られた円筒形の 空洞がある。断面の直径は十五メートルほどだ。その空洞の壁面も 石材で覆われていて、その壁面に沿って、石で作られた階段が 延々と続いている。螺旋神殿という名称は、その階段が螺旋を 描いていることに由来するものだ」

「垂直に掘られた円筒形の空洞……」歳玄は典摂の言葉を 反芻しながら、どこまでも続いていく暗黒の細長い空間を頭の中に 思い描いた。「その空洞というのは、深さはどれくらいあるんだ」

「俺は考古学の専門家ではないから正確な数字は 覚えていないが、せいぜい四十メートルか 五十メートルぐらいだったと思う」

歳玄はかすかな失望を感じた。「なんだ、そんな程度か。無限の 深さを持つ空洞とかだったら面白いのに」

歳玄は、しばらくのあいだ会話を中断して、無言で食事を 進めながら、螺旋神殿が建設された目的について考えを巡らした。 それから、「ところで、その遺跡は今でもあるんだろうな」と 訊いた。

「そうだ。入口の漆喰が部分的に除去された以外は、 発見されたときの状態のまま保存されている。残念ながら、一般の 人間は中には入れないが、外から眺めることは許されている。 興味があるなら見に行くといい」

「そうしよう」と歳玄は言って、帆立貝のフライを口に運んだ。 「それで、その遺跡を作ったのは、菊地大陸とか 北安藤大陸とかにある遺跡を作った奴らと同じ種族なのか」

「そうだ」

「どうしてわかる」

「内部の壁面に文字が刻まれている。菊地大陸や北安藤大陸の 遺跡に残されているのと同じ文字だ」

「文字?」歳玄はグラスの水を啜りながら尋ねた。「何と 書かれてるんだ」

「お前は、考古学や言語学に関してはあまり 知識がないようだな」典摂は嘲笑するような口調で言った。 「これまでに人類以外の知的生命の遺跡で発見された文字は 十数種類にのぼるが、それらのうちで解読に成功したものは ひとつもない」

「なるほどね」と歳玄は言って、焼売を口の中に放り込んだ。 それを咀嚼したのち、彼は、別の話題に移ることにした。 「それから、もうひとつ訊きたいことがある。蛾鱗璽城に妖怪が 出るというのは本当のことなのか」

「それは事実だ」と典摂は答えた。

「その妖怪の正体は何だ」

「正体は不明だ。不明だから妖怪と呼んでいるんだ」

「どんな姿形をしてるんだ」

「それを見た者はいない。あるいは姿形などないのかもしれん」

「じゃあ、妖怪が出るというのはどういう意味だ。声が 聞こえるだけなのか」

「人間に恐怖を与える」

「どんなふうに」

「残念ながら、それ以上は俺も知らない。自分で調べてみろ。 クラッカーとしての腕が確かなら、造作もないことだろう」

「歳玄」と琴繭が言った。彼女は、怒ったような表情で歳玄を にらんでいる。

「何だ」

「妖怪について調べるのはかまわん。しかし、その恐怖を 体験してみようとか、妖怪を捕獲してみようなどと、絶対に 考えてはならんぞ」

歳玄は笑った。「妖怪の正体については興味があるが、恐怖を 体験してみたいとは思わないな」

「お前が妖怪に興味を持つとは思わなかった」と典摂が言った。 「お前はまず渾沌に興味を持つだろうと俺は思っていたのだが」

「渾沌?」歳玄は訊き返した。「何だ、それは。蛾鱗璽城の 内部が渾沌としているという意味か」

「そうではない」と琴繭が失望したように言った。「固有名詞の 『渾沌』だ。まだ調べていなかったのか」

「渾沌というのは、南安藤政府の研究機関によって開発された 人工知能のことだ」と典摂が説明した。「その研究機関が渾沌の 開発を開始したのは、蕪村暦百二十年ごろのことだ」

「その研究機関は、今でも活動を続けているのか」

「いや、もう存在しない。渾沌を開発していた研究機関は、 百五十年ごろ、予算を打ち切られたために消滅したんだ」

「じゃあ、その人工知能も、その時点で 存在しなくなったわけだな」

「いや、そうはならなかった。政府の研究機関が消滅した 時点で、渾沌も電源を切られるはずだったのだが、なぜかそれ以降も 渾沌は生き続けた。そして現在も稼動し続けている」

「じゃあ、今は、誰が資金を出して、誰が研究を続けてるんだ」

「現在は、渾沌自身が渾沌のスポンサーであり、かつ 研究機関だ」

歳玄は、驚きのあまり、ひき肉の詰まったピーマンを自分の口へ 運ぼうとしていた腕の動きを途中で止めてしまっていた。「渾沌は、 金を稼ぐことができるのか」

「そのとおりだ。奴は、電脳空間で商売をして稼いだ金で、 技術者や事務員や管理職を雇い、自分自身を改良するための部品を 購入している」

「そいつの目的は何だ」

「それを知っているのは渾沌だけだ。渾沌が何を 考えているかというのは、渾沌に雇われている人間たちにも わからないらしい。かろうじてわかっているのは、現在の渾沌が、 政府の研究機関によって開発されていた当時とは 比べものにならないほどの能力を持つ 存在になっているということだけだ。おそらく、人類がこれまでに 開発した人工知能など、足元にも及ばないほどに」

歳玄は、ブロッコリーを咀嚼しながら、もしも自分が 渾沌だったらどんなことを望むだろうかと考えてみたが、答が 容易に見つかるとは思えなかった。

「どうだ、興味を持っただろう」と典摂が言った。

「確かに興味深い話だ」と歳玄は言った。「だが、やはり 俺にとっては、渾沌の目的が何かということよりも、妖怪の正体が 何かということのほうが、ずっと興味をそそられる」

「興味をそそるかどうかはともかくとして、渾沌についても、 少しぐらいは関心を向けておいたほうがいいぞ」と典摂は言った。 「俺たちの敵になる可能性も、味方になる可能性もあるからな」

「そうだな」と歳玄は答えた。「ところで、 深度六十メートルよりも深い地下へ居住空間を広げるという 計画は、妖怪の出現のために放棄されたままになっているのか?」

「そうだ」

「じゃあ、人口の過密化の問題はどうなったんだ。ほかの方法で 居住空間を広げたのか?」

「そういうことだ」

「垂直ではなく、水平の方向へ空間を拡張したわけだな」

「いや、違う。深度六十メートル以上の居住空間を作る計画が 放棄された直後に、空間を水平方向へ拡張する計画が 立てられたのは事実だが、その計画は、着工されるよりも前に 放棄された。実現したのは、やはり垂直の方向への拡張だ」

「どういうことだ。深度六十メートルよりも深いところには 妖怪が出没するんだろう?」

典摂は、笑いをこらえているかのような表情で言った。「垂直に 下の方向ではなく、上に向けて居住空間を拡張したんだ」

「それだと、今度は危険生物の餌食になるんじゃないのか?」

「それが、大丈夫なんだ」

「どうして大丈夫なんだ。もったいぶらずにちゃんと説明しろ」

典摂は、愉快そうな笑い声を出してから、説明を始めた。 「南安藤大陸に棲息している草食動物たちは、さまざまな手段で 肉食動物に捕食される危険から身を守っている。そのような手段の ひとつは、強固な甲羅を発達させるというものだ。偶属や 周岳といった草食動物の甲羅は、老星の鉤爪や則善の嘴などでは まったく歯が立たないぐらい頑丈だ。そのような甲羅を形成している 物質については、蛾鱗璽城の歴史の初期のころから研究が 進められていたのだが、その物質を人工的に製造する技術が 確立されたのはごく最近で、蕪村暦二百二十年ごろのことだ。 蛾鱗璽城にとって、甲羅物質を製造する技術が確立されたことは、 きわめて画期的なことだったと言っていい。なぜなら、それを 建築材料として使うことによって、地上に構造物を建設して、 その内部に人間が居住することができるようになったわけだからな」

「なるほど」歳玄は、分厚い装甲で囲まれた武骨な建物の群を 想像した。「だが、せっかく地上に住めたとしても、窓がなくて外の 景色が見れないというのは残念だな」

典摂は、ふたたび声を出して笑った。「蛾鱗璽城の建物には 窓がない、などと勝手に想像してもらっては困るな。甲羅物質は、 不透明なものも透明なものも作ることができる。しかも、肉食動物の 攻撃から内部を守るという目的なら、厚さは数ミリもあれば充分だ。 つまり、蛾鱗璽城の建築家は、建物の外壁を好きなだけ 透明にすることができる、ということだ」

歳玄は、かすかな失望を感じた。「透明な外壁を持つ装飾的な デザインの建物なんて、蛾鱗璽城のイメージをぶち壊す存在だな」

第三捜神丸は、歳玄たち三人を拾い上げてから九日後に、 媒酸繕の港に入港した。

歳玄は、船が南安藤大陸に到着するまでの九日間を、主として、 電脳空間を形成しているさまざまなプログラムのソースを読むことに 費やした。彼が蟹倉島に収監されていた四年間のあいだに、 それらのプログラムは大きく変化していた。過去に彼が利用していた セキュリティーホールは、ほとんどすべてと言っていいほどの割合で すでに塞がれていた。しかし、ソースを丹念に読んでいくうちに、 彼は、クラッキングに利用できそうな抜け穴をいくつも 発見することができた。

ソースを読んでいて疲れた頭を休めたくなったときに、歳玄は、 蛾鱗璽城に関するさまざまな知識を収集し続けている式神たちを 召還して、彼らからの報告を聞いた。歳玄は、蛾鱗璽城の住民たちの 社会、南安藤の政治体制、蕪村と南安藤との政治的あるいは経済的な 関係についてなど、多くの知識を吸収した。しかし、妖怪の正体や 渾沌の目的など、核心に触れる情報を入手することは、式神たちの 能力を越えているらしく、何の手掛りも得られなかった。光琳7号に 侵入したクラッカーが誰なのか、そしてそのクラッカーの雇い主が 誰なのか、というような点についても同様だった。

琴繭と典摂と歳玄が下船しようとしていたとき、歳玄の前に ひとりの船員が現われた。歳玄が第三捜神丸に乗船した最初の日に、 彼の部屋へ亀石を届けに来た船員だった。

「では、お元気で」と言いながら、船員は歳玄に紙袋を 手渡した。歳玄は紙袋の中を覗き込んだ。そこにあったのは、彼が 蟹倉島から脱獄した日に着ていた囚人服だった。歳玄は、船員に 感謝の言葉を述べたのち、すでにタラップの中ほどを降りつつある 琴繭と典摂を追った。

税関や出入国審査室などが入っている建物は、 ガントリークレーンが立ち並ぶ広大な埠頭の一角にあった。 そこに向かって歩いていく途上で、典摂は、一通のパスポートを 歳玄に手渡した。南安藤のパスポートである。表紙を開いてみると、 そこに貼られている顔写真は歳玄のものだったが、名前の欄には、 界孫という見知らぬ名前が書かれてあった。しかし、その署名の 筆跡は、どう見ても歳玄自身が書いたとしか思えなかった。

「ほほう、なかなか精巧にできているな」と歳玄は感想を 漏らした。

「偽造ではないぞ」典摂が言った。「それを取得するのに使った 手段は不正なものだが、南安藤政府が発行した正式なパスポートだ」

媒酸繕という都市は、南安藤大陸から甘露洋に向かって 突き出した粒藻半島の先端に位置している。入国審査を終えた 三人は、重力機の発着場へ行くために、強い日射しを浴びながら 媒酸繕の市街地を横切っていった。歳玄は、琴繭と典摂のうしろを 歩きながら、媒酸繕の景観が菊地大陸や北安藤大陸の都市と ほとんど見分けが付かないほど似通っていることに軽い驚きを 覚えていた。

「この辺りには危険生物は出没しないのか」と歳玄は前を 歩いている典摂に尋ねた。

「ああ、大丈夫だ」典摂は答えた。「粒藻半島は、内陸部とは まったく異なる独自の生態系を持ってるんだ。この半島にしかいない 珍しい生物も多い。不思議なことに、ここには人間に危害を加える 生物はまったくいない。だが、それこそが、ここに都市が建設された 最大の理由なんだ」

歳玄たち三人は、媒酸繕と蛾鱗璽城とのあいだを往復している 大型重力機の定期便に乗り込んだ。粒藻半島の西側に重畳として 連なる険阻な山脈を数分で飛び越えると、その先には、緑色の大地が 地平線にまで広がっていた。ときおり、ゆるやかに蛇行する大河の 断片が、西に傾き始めた太陽の光を反射して輝くのが見えた。

重力機は、二時間半ほど飛行したのち、蛾鱗璽城の上空に 到達した。窓の外を雲が下から上へ流れていき、次の瞬間、風景は、 無数のパイプが這い回る壁面に変化して停止した。

重力機の発着場から出たところには幅の広い階段があり、 その先は、いくつかの階層の断面に囲まれた巨大な吹き抜けの 空間になっていた。最下層には、さまざまな方向に通じる通路の 出入口があり、それらからは絶え間なく人々が現われ、思い思いの 方向へ歩いていき、そして別の通路へと消えていった。見上げると、 かなり高いところに天井があり、規則的に並んだライトが、広場を 真昼のように照らし出していた。琴繭は、典摂に向かって軽く 目配せをしたのち、くるりと背を向けて、そのままどこかへ 歩いていった。

「さあ、行こう」と典摂が言った。

「どこへ?」歳玄は、琴繭とは異なる方向へ歩き始めた典摂の 背中に向かって尋ねた。

「これからお前を、お前の宿舎へ案内する」

典摂と歳玄は長い通路を黙々と歩き、何度か方向を転じ、何度か 階段を降った。三十分以上も歩きつづけたのち、典摂は立ち止まって 振り向いた。すぐ横に扉があり、その上には 「粟島町公務員住宅」という小さな表札が掲げられていた。

「ここがお前の宿舎だ」と典摂は言った。

公務員住宅の五号室の前で、典摂は部屋の鍵と小さなメモ用紙を 歳玄に渡した。メモ用紙には、ハイフンで区切られた十桁の数字が 書かれていた。

「何だ、この数字は」

「俺の電話番号だ。界孫の名義で預金口座を作って、口座番号を 電話で俺に知らせろ。手付金をそこへ振り込んでやる。だが、 それ以外の用件では、よほどの事態でない限り電話はするな」

歳玄は、公務員住宅の廊下を去って行こうとする典摂に向かって 言った。「いつになったら仕事の内容を説明してくれるんだ」

典摂は振り向かずに答えた。「四日後だ。それまで待っていろ」

歳玄は、渡された鍵でドアを開き、自分が住むことになった 部屋に入った。そこには、当面の生活に必要と思われるものが ほとんど準備されているようだった。冷蔵庫の中には二日分程度の 食料が納められていた。そして机の上には一台の端末が 置かれてあった。亀石だった。

*

三日後、歳玄が近くのマーケットで食料を仕入れて帰ってきた 直後に、電話のベルが鳴った。典摂からだった。

「明日、午後三時四十分、畝里町地下七階にある 『蜜柑堂』という古本屋へ行って、『『雅楽号航海記』の第七巻を 置いてないか』と店番の女に尋ねろ。それが合言葉だ」

第二章――出土品

畝里町地下七階には、大勢の人が行き交う広い通路があり、 その左右には無数の小規模な店舗が並んでいた。その中の一軒である 蜜柑堂は、周囲の店舗と比べてもひときわ小さな店で、その間口は 二メートルに満たなかった。歳玄は、店の名前が秀麗な筆致で 書かれたガラス製の扉を開いて、店内に足を踏み入れた。

店の奥にはカウンターがあり、そこに店番の女が座っていた。 藍色の小袖を着た三十過ぎの女で、カウンターの上に頬杖をついて、 分厚い本を読んでいる。歳玄は、壁面を埋め尽くしている古本の 背表紙に視線を走らせながら、店の奥へ進んでいった。女は、視線を 本から歳玄へ移した。

「『雅楽号航海記』の第七巻を置いてないか」と、歳玄は、 典摂から教えられたとおりの合言葉を唱えた。

女は、自分の背後の扉を指差して言った。「この中の階段を 降りていくと、狭い通路があります。その通路を進んでいって、 その突き当たりにある部屋に入ってください。そこで皆さんが 待っています」

扉の奥は、剥き出しのコンクリートに囲まれた薄暗い 空間だった。床の中央に、下へ向かう階段がある。歳玄は階段を 降っていった。すると、幅が数十センチほどしかない通路の入口が 前方に見えた。その通路は、何度も左右に折れ曲がりながら 百メートルほど続いていて、突き当たりに扉があった。歳玄は ゆっくりとドアを開き、その奥を覗き込んだ。

そこは、重厚な内装が施された、書斎のような部屋だった。 向かい側の壁には、歳玄が開いた扉よりも大きくて立派な、 もうひとつの扉がある。部屋の中央には円形のテーブルがあり、 三人の人間がその周囲に座っていた。そのうちの二人は琴繭と 典摂だったが、もう一人は初めて見る人物で、密生した髭が顎と口の 周囲を覆っている中年の男だった。

グレーのスーツを着た琴繭は、髭面の男に向かって、「これが 歳玄だ」と言った。そして、歳玄のほうに向き直り、空いている 椅子を指差して、「ここに座れ」と言った。

歳玄が椅子に座ると、琴繭は、歳玄の正面に座っている髭面の 男を歳玄に紹介した。「こちらは穣随だ。最近まで秋水県立大学で 教授をしていた。専門は物理学。私の計画に 協力してもらっている」

穣随は、歳玄に向かって軽く会釈をして、「穣随です。 よろしく」と言った。心地よく響くバリトンの声だった。

「それでは、さっそく仕事の話をしよう」と琴繭が言った。 「私の目的を達成するためは、まず第一に、ひとつの品物を入手する 必要がある。その品物というのは、先住知的生命の遺跡で発掘された 出土品だ。現在、秋水県立大学理学部の倉庫で保管されている。 この出土品についての説明は穣随に任せる」

「発掘に携わった考古学者は、その出土品に『緑色円柱』という 名前を付けました」と穣随は言って、一枚の写真をテーブルの中央に 置いた。その写真に写っているのが問題の出土品だということは 一目瞭然だった。名前のとおり、緑色の円柱だったからだ。

穣随は説明を続けた。「これが緑色円柱です。この写真は発掘の 三日後に撮影されたもので、底面の半径は約五センチ、高さは 約十四センチ、重量は約三キロ、材質は閃緑岩です」

「ただ単に石を加工して円柱にしただけのものじゃないか」と 歳玄は言った。「こんなものにどんな価値があるんだ」

「これは実に驚くべき存在です。次に、発掘の十八日後に 撮影した写真を見てください」穣随は、二枚目の写真を最初の写真の 隣に並べた。

二枚目の写真に写っていたものは、緑色でもなく 円柱でもなかった。それは黄色に近い茶色で、横向きの三角柱が 直方体の上に乗った、家屋のような形をした物体だった。

「幅が約二十二センチ、奥行きが約十七センチ、高さが 約十八センチ、重量が約四キロ、材質は蕪村固有の植物の幹です」

「どういう意味だ」歳玄は穣随をにらみ付けた。「これは 緑色円柱ではない別のものだろう」

「考古学者たちも最初はそう考えました」穣随は、口許に かすかな笑みを浮かべた。「誰かが緑色円柱を持ち去って、 その代わりにこれを置いていったのだろうと。しかし、これは 間違いなく緑色円柱なのです」

「どうして同一の物体だとわかる」

「そののち考古学者たちは、カメラと測定機器で緑色円柱を 監視し続けることにしました。そして彼らは、緑色円柱が変化する 瞬間を何度も記録することができたのです。ただし、厳密に言うと 変化は瞬時ではなく、四百ミリ秒から七百ミリ秒ほどかかります。 サイズも材質も、それぐらいの時間の中で連続的に変化するのです。 変化から次の変化までの間隔は不規則で、数時間後に 変化することもあれば、何十日も変化しないこともあります」 穣随は、さまざまな写真やグラフをテーブルの上に並べていった。

歳玄は、重量の変化を示したグラフを手元に引き寄せて、それを じっと見つめた。それから顔を上げて尋ねた。「この出土品の発見は 公表されているのか」

「いいえ。緑色円柱について知っているのは、秋水県立大学の 考古学者たち、大学の首脳部、そして緑色円柱を分析するために 召集された物理学者たちだけです。この件に関しては、現在も 厳重な緘口令が敷かれています。私も、大学を辞める際には、 緑色円柱については決して口外しないという誓約書を 書かされているのです」

「それにしても」歳玄は低く呟くように言った。「この物体の 変化は、いったいどういう原理によるものなんだ」

「私以外の物理学者たちは、我々の物理学の範囲内だけで 理解できる何らかのトリックがあるに違いないと 考えているようですが、そのトリックはいまだに 解明されていません」

「じゃあ、あんたはどう考えてるんだ」

「私は、蕪村の先住知的生命は、空間物理学、すなわち 物質ではなく空間を研究の対象とする物理学を 発達させていたのではないかと考えています。そしてさらに、 彼らは、空間物理学を実利的なものの生産に応用するための学問、 すなわち空間工学を発達させたのです。緑色円柱というのは彼らの 空間工学の産物なのではないか、というのが私の考えです」

「どうだ、歳玄。なかなか興味深い出土品だろう」と琴繭が 言った。

歳玄は、右手に座っている琴繭に視線を移して尋ねた。「お前は さっき、この出土品を入手する必要があると言ったな。だが、 どうやって入手するつもりだ」

典摂が笑い声を漏らした。「それを考えるのがお前の仕事だ」

歳玄は典摂をにらみ付けた。「データを盗み出すのなら 俺にとっては朝飯前だが、いくら腕の立つクラッカーでも、物体を 盗み出すことはできない。物体を盗み出すためには、誰かがそこへ 忍び込む以外に方法はない」

再び典摂が笑った。「誰も、お前に忍び込めとは 言ってはおらんぞ」

「忍び込むのは私だ」と琴繭が言った。「だが、緑色円柱が 厳重な警備体制の中に置かれていることは間違いない。警戒網を 掻い潜って獲物に到達するためには、クラッカーの協力が ぜひとも必要だ」

「要するに、秋水県立大学のセキュリティーシステムを 手なずければいいわけだな」と歳玄は言った。「そんなことなら お安い御用だ。俺に任せておけ」

「セキュリティーシステムを手なずけるだけでは 充分ではありません」と穣随が言った。「緑色円柱は、現在もなお カメラと測定機器で監視されていて、何らかの変化が認められた 場合、当直の物理学者に即座に通報される 仕組みになっているのです」

「わかった。それについても俺が何とかしよう」と歳玄は 言った。「ところで、その緑色円柱だが、変化するたびにサイズや 重量が変化するとなると、琴繭が忍び込んだときの状態によっては、 大きすぎたり重すぎたりして盗み出せないという 可能性もあるんじゃないのか」

「その点については、それほど心配する必要はないと思います」 と穣随は言った。「少なくとも私が知っている範囲では、重量の 変化は一キロから六キロぐらいのあいだです。サイズに関しても、 一人で移動させるのが困難なほど 巨大になったことはありませんでした」

「歳玄、ほかに質問は?」と琴繭が尋ねた。

「緑色円柱が興味深い出土品だということはわかったが、 何のためにお前がそれを必要とするのかがわからん。お前の目的は 何だ」

「その質問に答えることはできない」と琴繭は冷ややかに 言った。「単なる好奇心やコレクションのためではないとだけ 答えておこう。ほかには?」

「作戦はいつ決行するつもりだ」

「それはお前次第だ。準備が整ったら、典摂に知らせろ。 電話番号は知っているはずだ」

午前四時三十二分、秋水へ向かう重力機が緑祭美から離陸した。 重力機は、沈みつつある太陽によって彩られた羊雲の群の中を垂直に 上昇したのち、東を指して急速に加速した。シートに身を沈めた 歳玄は、緑祭美で重力機を乗り換えるために中断させられた睡眠の 続きを取ろうとしたが、どうしても眠れなかった。彼は、 秋水に関して式神たちが調べてきた結果をプリントアウトしたものを ブリーフケースから取り出した。

季隋州秋水県は、菊地大陸の中央よりもやや東南寄りの 位置にある。緑際美から重力機で約三時間の距離である。県庁は、 人口約五万人の秋水市にある。県の面積の七割が森林で、二割が湖、 そして残りの一割が耕作地と市街地である。

秋水県立大学は、蕪村暦十七年に設立された、歴史の長さでは 蕪村でも有数の大学である。大学が設立された当初、その周囲には 深い森林しかなかったが、大学関係者の住居やさまざまな商店などが その周囲に作られていった結果、やがてそこにひとつの町が 形成された。大学の初代学長の名前にちなんで義炭町と名付けられた その門前町では、現在、約八千人の住民が暮らしている。

蕪村暦三十八年、秋水県立大学から二十キロほど北東に離れた 森林の中で先住知的生命の遺跡が発見され、秋水遺跡と命名された。 秋水遺跡は、蕪村で発見されたほかの遺跡と同様に石で建造された 構造物だったが、その規模の大きさと構造の複雑さにおいて、 それまでに発見されたどの遺跡をも凌駕していた。

秋水遺跡の内部は、複雑に入り組んだ通路と無数の小部屋から 構成されている。それらの小部屋には、先住知的生命が作ったと 思われる、石や金属でできた器具が残されていたが、 それらの器具は、その不可解な形状によって用途の推測をかたくなに 拒絶していた。

遺跡の壁面や、遺跡で発見された一部の石の器具には、文字が 刻印されている(金属の器具は腐蝕が進んでいるため、そこに 刻印されていたかもしれない文字は完全に 失われてしまっている)。それらの文字は、蕪村のほかの遺跡で 発見されたものと同じ、迷宮文字である。ちなみに、迷宮文字という 名称は、縦と横の直線のみによって構成されているその文字の字母が 迷宮の平面図に似ていることに由来するものである。

考古学者たちは、秋水遺跡の調査を開始してまもなく、遺跡の 地下へ向かう階段を発見したが、地下の部分は完全に土で 埋まっていた。地上部分の調査が完了したのち、彼らは地下部分の 調査を開始した。彼らは時間をかけて慎重に発掘の作業を 進めていったので、地下一階の調査が完了するまでには五十年の 歳月を要した。秋水遺跡の地下部分は地下一階のさらに下へも 続いており、それがどこまで続いているのかは、いまだに 確認されていない。考古学者たちは、現在もなお秋水遺跡の発掘を 続けている。

秋水遺跡で発掘の作業をしている考古学者たちの心境を 想像しながら、歳玄は、ようやく頭の芯にかすかな眠気が生じるのを 感じた。彼は紙の束をブリーフケースに戻し、窓の外に視線を 移した。そこでは、暗黒の空を背景にして無数の星々が瞬き、 そして半月になった呉春(蕪村の衛星のひとつ)がひときわ明るく 輝いていた。

*

目が醒めたとき、眼下にはすでに秋水市の夜景が 接近しつつあった。歳玄は、秋水市で重力機から列車に乗り換え、 孫翼という駅でさらにバスに乗り換えた。

バスは、闇に包まれた森の中を一時間近く走ったのち、住宅街に 滑り込んで停止した。水銀灯に照らし出された広い街路の両側には、 さまざまな外観の住宅が並んでいる。バスから降りた歳玄は、 人通りの少ないその街路を、番地表示を確認しながら歩いていった。 やがて彼は、ひとつの集合住宅の入口で立ち止まって、折り畳まれた 紙片をポケットから取り出し、それを広げた。それは典摂から 送られてきたメッセージをプリントアウトしたもので、そこには 「季隋州秋水県孫翼市義炭町三丁目七番地米穀荘405号」という 住所が記されていた。

405号の入口のチャイムを鳴らすと、ドアが開き、井桁絣の 着物の上に割烹着を着た琴繭が姿を現わした。彼女は、「入れ」と 命令口調で言ったのち、ドアを閉めて、異様なまでに頑丈そうな錠を 下ろした。

自分の荷物をどこに置けばいいのかと考えながら周囲に視線を 走らせている歳玄に向かって、琴繭は尋ねた。「秋水県大の セキュリティーシステムは、本当にこっちの 思いどおりになるんだろうな」

歳玄は、とりあえずリビングルームの片隅に自分の荷物を 置いて、「ほぼ完璧と言っていいだろう」と答えた。

琴繭は、「こっちへ来い」と言って、リビングルームの奥にある ドアを開いた。

その部屋には数台の亀石が置かれていて、その一台の前に典摂が 座っていた。ポロシャツとジーンズ、というカジュアルな 服装である。彼は、歳玄の姿を見ると、「やっと来たか」と 言った。

「セキュリティーシステムがどんなふうに 手なずけられているか、ここで説明しろ」と琴繭が命じた。

「警備会社の電脳空間には、俺が書いたプログラムを 泳がせてある」と説明しながら、歳玄は、端末にコマンドを 入力していった。「そいつに命令することによって、監視カメラや 警報装置からのデータは自由に改竄することができる。 たとえば……」

左右に並んだ二台の端末のスクリーンに、それぞれ、まったく 同じ光景が映し出されている。大学の建物の中にある 廊下のひとつだ。十数人ほどの人間が歩いている。「左の映像は 監視カメラからの生のデータ、そして右の映像は警備会社の連中が 見ているものだ。そうだな……奥のほうからこちらに向かって、 黒縁眼鏡の男が歩いてくるだろう。そいつに注目していてくれ」

歳玄は、かなり長いコマンドを入力した。すると、右側の スクリーンの中にいる黒縁眼鏡の男は、何かを 思い出したかのように立ち止まって、くるりと背を向けて奥のほうへ 戻っていった。しかし、左側のスクリーンの中では、相変わらず こちらに向かって進んでくる。「お望みとあれば、被写体の姿を 完全に消してしまうことも可能だ」

「上出来だ」と琴繭が言った。

歳玄は尋ねた。「お前が秋水県大に潜入するときの服装は、 あの忍者装束か?」

「そうだ。それがどうした?」

「作戦を決行する前に、一度、お前が忍者装束を 着ているところをカメラで撮影したいんだが」

「何のためだ」

「その映像をあらかじめ俺のプログラムに登録しておけば、俺が コマンドを入力しなくても、プログラムが自分で判断して、お前の 姿を消してくれるようになる」

「わかった」と琴繭は言った。「そういう理由なら、 私だけではなく典摂も撮影しておいたほうがいい」

「典摂と二人で潜入するのか?」

「そうではない」と典摂が言った。「琴繭が 潜入しているあいだ、俺は、お前とともに車の中で待機している。 しかし、不測の事態が生じた場合は、俺が救援に 駆け付けることになる」

「なるほど、そういうことか」と歳玄は言った。「それから、 警備に関する問題で、ひとつ、クリアできずに 残っているものがある」

「何だ」と琴繭が言った。

「警備員の巡回だ」

「それについては私も自分で調査した」と琴繭は言った。 「時刻は不定、頻度も不定。ほぼ確実に言えるのは二人一組で 行動するということぐらいだ」

「そのとおりだ。俺のプログラムでも警備員の肉眼を ごまかすことはできないから、警備員の巡回をいかに遣り過ごすか というのは、この作戦の成否を分ける重要なポイントだと 言っていい。とりあえず、大学構内にいるすべての警備員の位置を 把握できるようにする仕掛けは作ってあるが、警備員と遭遇する 確率をゼロにすることはできない」

「わかった」と琴繭は言った。「次に、物理学者たちが 監視している緑色円柱のほうに講じている対策について説明しろ」

「秋水県大の電脳空間にも侵入経路を確保してある」歳玄は、 そう言いながら端末にコマンドを入力した。スクリーンに、 金属光沢のある水色の細長い材料を竹細工のように編むことによって 作られた花籠のような物体が映し出された。 「これが現在の緑色円柱だ」

「警備会社の場合と同じように、データを改竄するわけだな」 と典摂が言った。

「基本的にはそういうことだが、物理学者たちのほうには、 警備会社のものよりも、もう少し特殊なプログラムが必要だった。 それは、緑色円柱の映像や測定データを自動的に捏造する プログラムだ。試しに、一日を一秒に縮小して走らせてみると、 こんなふうになる」

歳玄がコマンドを入力すると、スクリーンの中の緑色円柱は、 オレンジ色をした亜鈴のような物体に変化し、その数秒後には 群青色をした吊橋のような物体に変化し、さらにそののちも、 不定期な間隔でさまざまな色や形に変化し続けた。

「琴繭が緑色円柱を盗み出す直前に、このプログラムを 秋水県大の電脳空間で走らせる。そうすれば、物理学者たちは、 緑色円柱の実体が持ち去られたのちも、仮想的な緑色円柱が 変化し続けるのを観察することになるわけだ」

歳玄による説明がひととおり終わったのち、琴繭と典摂は それぞれ別の部屋へ行き、秋水県大に潜入するときに着る服装に 着替えてふたたび歳玄の前に現われた。典摂は、カーキ色の 作業服を着ている。

琴繭が顔の下半分を覆面で隠すと、その双眸が与える 少年のような印象は、何倍にも強調される。歳玄は、蟹倉島の 独居房で、その扉の覗き窓から初めて琴繭を見たときの印象が鮮烈に 蘇ってくるのを感じた。

歳玄は、さまざまな角度から二人の姿を撮影した。その作業が 終わると、二人はふたたびもとの服装に着替え、それから連れ立って 買い物に出かけた。歳玄は一人で端末に向かい、警備会社の 電脳空間を泳ぎ回っている自分のプログラムに、琴繭と典摂の映像を 登録して、彼らの姿を自動的に消去する設定を書き込んだ。

買い物に出かけた二人は二時間ほどで戻ってきて、キッチンで 料理を作り始めた。歳玄は、プログラムをプリントアウトしたものを リビングルームのテーブルの上に広げて、それを読みながら料理の 完成を待った。しばらくすると、食べ物の匂いがリビングルームにも 漂い始めた。歳玄は、自分が最後に食事らしい食事をしたのが 二十時間も前だということを思い出した。

食事が始まってすぐに、琴繭が言った。「作戦の開始は三日後の 午前一時だ。太陽は沈んでいる。その前日の午前十時に最終的な 打ち合わせをする」

義炭町の街外れ、森と空地にはさまれた道路に、一台の 軽トラックが停車している。西の空に低くかかっている呉春の ほのかな光を浴びて、荷物室の部分に書かれた 「渋川通信工業」という文字がなんとか判読できる。歳玄が 軽トラックに背後から近付いていくと、荷物室の扉がわずかに開き、 中にいた琴繭が彼を手招きした。

歳玄がトラックの荷物室に乗り込むと、琴繭は扉を閉めたのち、 腕のトランシーバーに向かって、「拾った」と言った。その声は、 琴繭の口から発せられたものとトランシーバーを経由したものとの 二重唱になって歳玄の耳に届いた。歳玄は、エンジンが始動する 音を聞き、そしてトラックが加速するのを感じた。

荷物室の天井にはライトが取り付けられてあったが、読書に 適していると言えるほど明るいものではなかった。琴繭は、荷物室の 壁にもたれ、足を投げ出した状態で、ほとんど動かず、何も 言わない。

歳玄は、あらかじめ積み込んでおいた端末の電源を入れた。 それは亀石ではなく、「猿田彦」と呼ばれる、長門電器という メーカーが作っている端末だった。歳玄が亀石ではなく猿田彦を 選択したのは、猿田彦が、振動などの悪条件のもとでも 故障しないことを重要視して設計されたものだったからだ。

トラックは数分で目的地に着いた。琴繭は、無駄のない動きで 荷物室の扉を開き、その扉を外側から閉めた。扉が開いていたのは ほんの一瞬だったが、その向こうに、秋水県大のフェンスが 闇に向かって続いているのが見えた。歳玄は、第七講義棟の 時計台の上に取り付けられた監視カメラからの生の映像と、 それをプログラムが改竄した結果を端末のスクリーンに呼び出した。 生の映像の片隅に、蟻のように小さな黒い人影が、滑るように 動いていくのが見える。

「まもなく第一ゲート」琴繭の声は、のんびりと散歩をしながら しゃべっているかのように穏やかだった。

琴繭が言った第一ゲートというのは、緑色円柱が置かれている 物性第三実験棟の出入口のひとつで、それは、七箇所ある 出入口のうちで、もっとも目立たない位置にある。歳玄は 第一ゲートの錠をはずし、物性第三実験棟の一階にある監視カメラの 映像を呼び出した。一階は、その大部分が ひとつの部屋になっていて、複雑な形状の巨大な機械が いくつか設置されている。

「通過した」と琴繭が言った。

歳玄は、第一ゲートの錠を下ろし、監視カメラの生の映像を 注視した。機械のあいだを縫うようにして琴繭が移動しているのが 見える。

物性第三実験棟の一階にある階段室の入口が第二ゲートだ。 階段室の監視カメラの映像の中に琴繭の姿が入ってくる。彼女は、 音を立てないように慎重に階段を降っていく。

歳玄が見詰めているスクリーンの片隅に小さな窓が出現して、 そこに短いメッセージが表示された。「そこにいるのは 歳玄さんでしょう?」

「そう言うお前は誰だ」と歳玄は返答を端末に入力した。

「蟹倉島でお会いした群傾です。 私のこと、覚えていてくれてます?」

端末には触れることすらできないはずの群傾がどうやって 電脳空間に接続しているのかという疑問が湧き起こったが、 そんなことを穿鑿している余裕のある状況ではなかった。

「ああ、覚えている。 だが、俺は忙しいんだ。 お前にかまっている暇はない」

琴繭は、もうすぐ地下五階に到着しようとしている。歳玄は 第三ゲートの錠をはずした。その扉を抜けると、その先は地下五階の 廊下だ。歳玄は、地下五階の廊下を監視しているカメラの映像を スクリーンに呼び出した。廊下の途中にある階段室の扉がゆっくりと 開き、琴繭の姿が現われる。

群傾からのメッセージが、廊下の映像に重なって表示された。 「秋水県大の電脳空間なんかに侵入しても、 何か面白いものがあるとは思えないんですけど、 そこで何をしてらっしゃるんですか?」

「俺のコメントがほしいなら、刻意工科大学の電脳空間で 待っていろ。そのうちに行ってやるから」

「しかたないですね。 そうします」

緑色円柱は、地下五階にある機能性物質実験室という 六十平方メートルほどの部屋の中に置かれている。歳玄は、 第四ゲート、すなわちその実験室の扉の錠をはずして、さらに、 緑色円柱のデータを捏造するプログラムを起動した。

実験室の天井の隅に取り付けられた監視カメラの映像の片隅に、 幅と奥行が一・七メートル、高さが二メートルほどの直方体が 映っている。緑色円柱が収蔵されている計測セルだ。琴繭は、 その計測セルの前で立ち止まり、腕を口に近付けた。

「プログラムの準備は?」と琴繭が尋ねた。

「すでに走っている」

「警備員は?」

「三分前に巡回を開始した。現在は第二講義棟の中だ。 物性第三実験棟を通過するのは十四分後の予定」

「了解」

琴繭は、厚手の布でできた黒色の袋を広げて、それを床の上に 置いた。そして、計測セルの前面にある観音開きの扉を開いた。 計測セルの内部を照らしている強い光が外に漏れ、床の上に琴繭の 影を描き出した。

緑色円柱は、三十時間ほど前に変化したときの状態を 保っていた。ざらざらした表面を持つ濃紺の直方体と、大きさの 異なる六個の透明な球体とが組み合わさっている。直方体は 幅十二センチ、奥行七センチ、高さ二十八センチ、球体の直径は 最大が九センチ、最小が四センチ、そして重量は三・七キロだ。

琴繭は、両腕を計測セルの中に向かって伸ばした。 物理学者たちが緑色円柱の変化を記録するために計測セルの内部に 取り付けたカメラからの映像の中に、黒い布に包まれた琴繭の両手が 侵入してきた。

琴繭の手が緑色円柱に触れようとした瞬間、その物体は 別のものに変化した。黄色や赤やオレンジ色に彩られた無数の突起を 持つ球体だ。琴繭は、両腕を反射的に計測セルから引き戻した。

緑色円柱の変化は、それだけでは終わらなかった。その物体は 一秒か二秒ぐらいの間隔で次々と変化し続けた。歳玄が秋水県大の 電脳空間の中で読んだ記録によれば、これまででもっとも短かった 緑色円柱の変化の間隔は四時間三十七分だったそうだ。だとすれば、 この現象は、緑色円柱が発掘されて以来、誰も 見たことのなかったものだということになる。残念なことに、 物理学者たちはこのような現象が発生したことを永遠に 知らないままでいることだろう。

「何が起こってるんだ?」琴繭が不機嫌そうな声で言った。

「俺にもわからん。お前に逢えてうれしいという気持ちの 表現なんじゃないか?」

「冗談は言うな」

案外、冗談ではなくてそのとおりなのかもしれない、と歳玄は 思った。変化し続けている緑色円柱の色や形状は、完全に無作為に 選ばれたものではなく、明らかに偏りが認められる。色には、 明るくて鮮やかで、そして暖色が多いという傾向があり、 そして形状も、喜びを表現しているかのような躍動的な印象を 与えるものが多い。

緑色円柱の連続的な変化は、数十秒ほど続き、そして、 始まったときと同じように唐突に終了した。歳玄は、変化を止めた 緑色円柱を見た瞬間、何かに打たれたような衝撃を覚えた。 その色と形状は、穣随に見せられた最初の写真に写っていたものと 同じだった。すなわち緑色の円柱である。

琴繭は、ふたたび両腕を伸ばして、慎重に緑色円柱を持ち上げ、 床に置かれた袋の中にそれを納めた。そして、その袋を背中に 背負い、袋に取り付けられた紐でしっかりと体に固定した。 それから、計測セルの扉を閉ざして、滑るような動きでそこから 離れた。歳玄は第四ゲートの錠をはずした。

機能性物質実験室をあとにした琴繭は、 その七分後に第一ゲートを通過した。 第七講義棟の時計台から俯瞰した映像の中に、 小さな黒い影が侵入してきた。 それは、歳玄と典摂が待機しているトラックの方向へ、 ほぼ一直線に移動している。 あと数分で、彼女はフェンスを越えてトラックに戻ってくるだろう。 歳玄は作戦の成功を確信し、緊張の糸を緩めた。

琴繭の移動が停止したのはその直後だった。 映像の中の黒い影は、灌木が点在する芝生の上にあり、 まったく動いていない。 歳玄は彼女の姿を拡大してみたが、 何が起きているのかまではわからなかった。

歳玄はトランシーバーに向かって言った。 「典摂、非常事態だ。 ここへ帰還するまであと三百メートルの地点で、 琴繭の動きが停止した。 理由は不明だ」

「了解。 救助に向かう」

「いや、今はだめだ」

「なぜだ」

歳玄は、 カフェテリアの中にある監視カメラの映像を見ながら答えた。 「警備員が、今、カフェテリアから出るところだ。 今行けば、間違いなく警備員と遭遇する」

「琴繭の姿を警備員に目撃されることは絶対に避けねばならん。 多少、手荒なことをしてでも、それを阻止する」

時計台に設置された監視カメラの映像の中に、 カフェテリアから出てきた二人の警備員の姿が見える。 彼らが向かっている方向には、停止した琴繭がいる。

「もう遅い」と歳玄は言った。 「どんなに急いでも、 琴繭のところに到着するのはあんたより警備員のほうが先だ」

「琴繭を目撃されないようにする方法はないのか」

「今、それを考えているところだ」

警備員と琴繭との距離が百メートルにまで縮まったとき、突然、 けたたましい非常ベルの音が 琴繭のトランシーバーから送られてきた。 警備員の動きが止まり、琴繭とは逆の方向へ走り出した。

「警備員は去っていった。 救出に行けるぞ」と歳玄は言った。

トラックの運転席の扉が開く音が聞こえた。 そして、その一分後に、 監視カメラの映像の隅に典摂の姿が現われた。 歳玄は琴繭の位置へ典摂を誘導した。

黒い影にしか見えない二人の姿が映像の中で重なったが、 その影はなかなか移動を開始しようとしなかった。

「どうした。 何か問題でもあるのか」と歳玄は呼びかけた。

「琴繭はここにはおらんぞ」と典摂は言った。

「どういうことだ」

「わからん。 ともかく、ここにあるのは、 琴繭の衣服とトランシーバーと、 それから緑色円柱が入っていると思われる袋だけだ」

「警備員が戻ってくるかもしれない。 そこにあるものを回収して帰還したほうがいい」

影像の中の黒い影は、トラックの方向へ移動を開始した。 そのとき、 スクリーンの上にメッセージが出現した。

「危ないところでしたね」

「群傾か?」と歳玄は端末に入力した。

「聞くまでもないでしょう。 今、 歳玄さんが秋水県大の電脳空間に侵入していることを知っているのは 私以外にはいないんですから」

「お前にかまっている暇はないと言ったはずだ」

「そんなに冷たくあしらわなくてもいいでしょう。 むしろ、礼を言ってくれてもいいぐらいですよ」

「何の礼だ」

「さっきの非常ベルですよ」

「あれはお前が鳴らしたのか」

「そうです。 これで貸しができましたね」

「余計なお世話だ。 非常ベルが誤報だとわかれば、 その原因を究明するために電脳空間のログが解析されるだろう。 お前は我々を危険にさらしたことになる」

そのとき、トラックの荷物室の扉が開いて、 典摂が乗り込んできた。 彼は、琴繭の衣服とトランシーバーを床に置き、 そして紐が付いた黒い袋から緑色円柱を取り出した。 その物体の色と形状は、 歳玄が監視カメラの映像で最後に見たときと同じだった。 すなわち緑色の円柱である。

「琴繭はどこへ行ったんだと思う?」と典摂が尋ねた。

「おそらくこの中に吸収されてしまったのだろう」 と歳玄は言って、 緑色円柱を指差した。

「まさか」と典摂はつぶやくように言った。

「俺には、そうだとしか思えない。 さっき、機能性物質実験室で琴繭がこいつと初めて出会ったとき、 こいつは、 あたかも彼女との出会いを喜んでいるかのような反応を示した。 こいつと琴繭とのあいだには何らかの絆がある。 こいつが彼女を自分に同化させたのだとしても、 驚くには値しないと俺は思う」

「琴繭がこの中に吸収されたのだと仮定して、 どうすれば彼女を分離することができる?」

「そんなことを俺に訊くな」 と言って歳玄は口元に苦笑を浮かべた。 「あの穣随とか言う髭面にでも聞けばいいだろう」

「そうだな」と典摂は言った。

「ともかく長居は無用だ。 とっととずらかろう」

典摂は緑色円柱を袋に戻し、それを琴繭の衣服の上に置き、 そしてトラックの荷物室から出て行った。 運転席のドアの音が聞こえ、エンジンの振動が伝わってきた。

歳玄は、典摂が置いていった袋をふたたび開いて、 その中の緑色円柱を取り出した。 その円柱は、 緑色を基調とする細かい模様が入った石でできていた。 表面は磨かれたようにすべすべしている。 歳玄は、 自分の顔の前でその物体をゆっくりと回転させながら 細部を観察してみたが、 不審な点はまったく見付からなかった。

歳玄は、緑色円柱を右手に持ち、 床の上にある袋を左手で拾い上げた。 次の瞬間、緑色円柱は別の形態に変化した。 サイズは約十倍、重量は十数倍という、 今までにない大きな変化だった。 それを片手で持ち続けることは不可能だった。 歳玄はバランスを失い、床に落ちた緑色円柱の上に倒れた。 しかし、その材質はすでに石ではなくなっていたため、 痛みは感じなかった。

床と歳玄とのあいだに挟まれた緑色円柱は、 一言で説明することのできる形状と材質だった。 それは琴繭にそっくりだったのである。

歳玄の頭のすぐ横に琴繭の頭があった。 彼は首を曲げて彼女の横顔を見た。 彼女の目は閉ざされていた。 しかし数秒後に彼女は目を開き、 自分の体の上に覆い被さっているものを見た。 そして、突き刺さるような視線を歳玄の顔に向けて、 「何をしている、歳玄」と言った。

歳玄はあわてて緑色円柱から離れ、 「お前は琴繭なのか」と尋ねた。

「そうだ」と緑色円柱は答えた。 そして瞬時にして立ち上がり、 周囲を見渡した。 彼女は全裸だったが、 恥ずかしげな素振りは微塵も見せなかった。

琴繭は床の上に無造作に置かれた自分の衣服に目を留めた。 そして、 「私が意識を失っているあいだに起こったことを報告しろ」 と歳玄に命じてから、忍者装束を素早く身に付けた。

歳玄は、琴繭の移動が停止したところから話を始め、 そして自分が琴繭の上に覆い被さったところで その報告を締め括った。

「すると、 緑色円柱は今は私の一部分になっているのだな」

「あるいは、 お前が緑色円柱の一部分になっているのかもしれん」

琴繭はトランシーバーを腕に装着して、 「典摂、今の話を聞いていたか」と呼びかけた。

「ああ、聞いていた」

「どう思う」

「わからん。 おそらく穣随も頭を悩ませるに違いない」

その数秒後、トラックは静かに停止した。 歳玄を拾った場所に戻ってきたのだ。

「今夜は大儀であった」と琴繭は歳玄に言った。 「蛾鱗璽城の公務員住宅に戻って待機していろ。 追って、次の作戦に関する連絡が典摂からあるだろう」

歳玄は扉を開いてトラックの外に出た。 琴繭によって扉が閉ざされると、周囲は闇に包まれた。 エンジンの音とともにテールランプが遠ざかっていく。

しばらくすると、目が闇に慣れて、 星空を背景にした森のシルエットが見えるようになった。 しかし、呉春が西へ沈んでしまっているため、 周囲の闇は依然として深いままだ。

歳玄は、その場に立ちつくしたまま三十分近く待ち続けた。 彼が待っていたものは、 緑色のランプを点滅させながら低空を飛行してきた。 あらかじめチャーターしていた小型重力機だ。

重力機は機体の方向を変えながら空地に着地し、扉を開いた。 室内灯が点灯し、 その光が歳玄と重力機とのあいだの地面を照らした。 歳玄は重力機に乗り込み、 地図を表示したスクリーンに何度か指で触れて行先を設定した。 扉が閉じ、室内灯が消えると、窓の外に星空が広がった。 数分後、秋水重力機発着場が眼前へ急速に迫ってきて、 着地にともなうかすかな振動が座席に伝わってきた。

粟島町公務員住宅の五号室に戻った歳玄は、 琴繭についての情報を収集する数匹の式神を書き、 それを電脳空間に放った。 そして、 自分はどうしてこれまで 自分の雇い主について調べる必要性を感じなかったのか ということを訝しく思った。 琴繭について調査することは、 雇い主として信用できるかどうかを確認するために 必要であるのみならず、 自分の好奇心を満足させるためにも必要だと歳玄は考えた。 蛾鱗璽城は、妖怪や渾沌などのさまざまな謎を秘めた存在だ。 しかし歳玄は、 蛾鱗璽城の最大の謎は妖怪でも渾沌でもないということに 気付き始めていた。

歳玄は、 警備会社と秋水県大の電脳空間に 自分が残した痕跡を消去する作業を進めながら、 式神たちが収穫を得て戻ってくるのを待った。 しかし、彼らはなかなか戻って来なかった。 歳玄は、式神たちを何度も呼び戻して成果を尋ねたが、 はかばかしい回答が彼らから返ってくることはなかった。 琴繭についての情報を入手するためには 蛾鱗璽城の中枢へ自ら侵入する以外に方法はなさそうだ、 と歳玄は考えた。

緑色円柱のデータを捏造するプログラムだけを残して、 警備会社と秋水県大の電脳空間に残した自分の痕跡を 完全に消去したのち、 歳玄は、刻意工科大学の電脳空間に侵入した。 そこは、盗むに値するほどの情報は何もないにもかかわらず、 ハッカーやクラッカーの侵入を許せば 大学の沽券にかかわるというだけの理由で、 途轍もなく堅固な防壁が築かれていることで知られていた。 ハッカーやクラッカーたちは、 その大学の電脳空間を自分たちの溜り場として好んで利用していた。 その電脳空間は、 外部の人間が侵入することは確かに容易ではなかったが、 その内部での行動に対する監視の目はきわめて稀薄だった。 ハッカーやクラッカーたちの多くが そこに自分専用の裏口を作っていたが、 それらが発見されて撤去されたという事例を 歳玄はまだ一度も聞いたことがなかった。

刻意工科大学の電脳空間で、歳玄は群傾の痕跡を探った。 それは、監理者の目に留まるところには存在していなかったが、 ほかのクラッカーと彼との会話に使われたと見られる ファイルの残骸がいくつも残されていた。 その残骸の属性は、 群傾がここへ侵入するのは一定の曜日と時間帯に限定されている ということを物語っていた。

四日後、再び刻意工科大学の電脳空間を訪れた歳玄は、 すでにそこに侵入していた群傾に文字で話しかけた。

「この間、 俺の仕事の邪魔をしてくれたことに礼を言っておく」

「やあ、歳玄さん。 あのときの仕事の首尾はいかがでした?」

「まあ上々だったと言っておこう。 そんなことより、お前は、自分の刑期は二年だと言っていたはずだ。 どうやって出所したんだ。 それとも脱獄したのか?」

「出所も脱獄もしてませんよ。 私はまだ蟹倉島で服役中です」

「お前の言うことは信用できないな。 それが真実だとすれば、 端末には指一本触れることはできないはずだ」

「歳玄さんは、 鮮曜っていう看守から取引を持ちかけられませんでした?」

歳玄は、鮮曜の俗物的な顔を想い浮かべた。 群傾が言ったとおり、歳玄は、 端末を使わせてやる見返りに 不正な手段で金を集めてもらえないかという話を 鮮曜から持ちかけられたことがあった。 歳玄は即座に断った。 雇い主は慎重に選ぶ必要がある。 鮮曜は歳玄にとって 信頼を置くことのできる雇い主とは言えなかった。

「断った」と歳玄はキーを叩いた。 「お前に雇われるぐらいなら死刑にされたほうがマシだ と言ってやった。 お前は取引に応じたのか」

「ええ。 それは正解でしたよ。 端末を自由に使わせてもらえるだけじゃなくて、 ほかにもいろいろと便宜を図ってもらってるんです」

「目先の利益に目が眩んで安易に仕事を引き受けるのは危険だ と忠告しておいてやろう」

「あいにく私には、歳玄さんとは違って、 仕事を依頼するために刑務所から脱獄させてくれるような 立派な雇い主はいませんからね。 これが最善の選択肢ですよ」

そのとき、歳玄の脳裡に、 琴繭に導かれて獄舎から脱出したときの光景が蘇った。

「俺が脱獄したとき、誰も死人は出なかったか」

「死人は出てません。 昏睡状態に陥った看守が何人かいたようですが、 すぐに回復したようです」

歳玄は、「縁があったらまた会おう」という言葉を残して、 刻意工科大学の電脳空間から退出した。

その四日後、 式神のうちの一匹が琴繭についての情報を携えて戻ってきた。 その情報は、 蛾鱗璽城の児童福祉施設の電脳空間で発見されたもので、 その施設に琴繭が収容されたときに作られたと思われる書類に 書き込まれていたものだ。

「蕪村暦二百二十一年八月三十一日に螺旋神社の境内で保護。 女児。 推定年齢零歳三か月。 名前に関する手がかりが得られなかったため、琴繭と命名」

螺旋神社というのは、 知的先住生命の遺跡である螺旋神殿を御神体とする、 蕪村暦二十二年に創建された神社である。 零歳三か月の琴繭を放置した何者かは、 何らかの理由があって螺旋神社をその場所として選んだのだろうか、 と歳玄は考えてみたが、 結論を出すためにはさらに多くの情報が必要だった。

式神が琴繭についての情報をもたらした翌日の深夜、歳玄は、 警備会社の電脳空間に侵入して一本のプログラムを走らせた。 そして次に、秋水県大の電脳空間に侵入して、 そこでも一本のプログラムを走らせた。 それらのプログラムは、 何者かが秋水県大の物性第三実験棟に侵入して緑色円柱を盗み出す というシナリオにもとづく架空の映像を 警備会社の社員や物理学科の教授たちに見せるものだった。

翌朝、歳玄は、 プログラムを消去するために ふたたび警備会社と秋水県大の電脳空間に侵入した。 物理学者たちは混乱の渦の中にいた。 彼らは、 緑色円柱の行方についてさまざまな憶測をめぐらしていたが、 自分たちが視せられていた緑色円柱の映像は作り物だった ということに気付いた様子はまったくなかった。

第三章――妖怪

緑色円柱の奪取に成功したのち、琴繭は、 次の作戦に関する連絡が典摂からあるだろうと歳玄に言ったが、 十日が過ぎても、一か月が過ぎても、 その連絡は歳玄のもとに届かなかった。 歳玄は、蛾鱗璽城の電脳空間の中にある 堅固な防壁に囲まれた区域に侵入するための準備を進めながら、 典摂からの連絡を辛抱強く待ち続けた。

式神によって妖怪に関する情報がもたらされたのは、 歳玄がそのような日々を送っていたときだった。

妖怪に関連する情報を携えて帰還したのは、 第三捜神丸の船上で歳玄が書いた式神だった。 その式神は、蛾鱗璽城保安局の電脳空間に自力で侵入し、 そこで妖怪に関する報告書のひとつを発見して、 その全文のコピーとともに歳玄の端末に戻ってきた。 その報告書には、 「居住エリア第三十七区で頻発する異常現象について」 という表題が付けられていた。 以前、別の式神が報告したとおり、 蕪村暦二百十年ごろ、 深度六十メートルよりもさらに深い地下へ 居住空間を広げる計画が立案された。 それが居住エリア第三十七区である。

異常な現象は、工事が開始された直後から始まった。 工事関係者が、 しばしば現場で作業をしている最中に行方不明になるのである。 姿が見えなくなる瞬間は、けっして目撃されない。 言い換えれば、周囲の人間が視界に入れている限り、 行方不明になる危険はないということだ。 肉眼だけではなく監視カメラでも効果は同じである。

工事現場に無数の監視カメラを設置した上で工事は続行され、 分譲も開始された。 しかし、 居住者を常に監視カメラの視界に入れておくことはできなかった。 居住者が続々と行方不明になる危険な居住エリアだと マスコミが騒ぎ始めたのち、 工事は中止され、 第三十七区は無人の空間として放置されることになった。

居住エリア第三十七区で行方不明となった人々のうちで すでに発見された者はきわめて少数で、 大多数は現在もなお捜索中である。 保安局は、行方不明となったのちに発見された人々から、 行方不明になっていたあいだの記憶について聴取したが、 外傷後ストレス障害の症状の重い者が多いため、 現象の解明に役立つまでには至っていない。

報告書はその末尾に、 居住エリア第三十七区で行方不明となったのちに発見された 工事関係者のひとりから、 行方不明中の出来事について聴取した際の会話を収録していた。

それは次のような会話だった。

「あなたが遭遇した異変は、 どのような状況で始まったのですか」

「第四層の第十八ブロックで配管の作業が終わったのち、 ほかの作業員とともに階段で第三層へ上がったのですが、 図面を綴じたファイルを置き忘れてきたことに気付いて、 独りで第四層へ戻ったのです。 ファイルを持って戻ろうとしたとき、 階段から女性が降りてきました」

「その人はどのような女性でしたか」

「細面で髪が長くて、喪服のようなものを着ていました」

「喪服のようなものというのは、 具体的にはどのようなものですか」

「帯も含めた全体が黒い、留袖の着物でした」

「その女性と話をしましたか」

「話はしていません。 『ここは工事現場ですから危険ですよ』と声をかけたのですが、 その人は無言で頷いただけでした。 上の層へ戻るように指示しようとしたとき、その人は、 右手で空中に円を描くような仕草をしました。 その直後に、私は、自分の意識が薄れていくのを感じました」

「意識が戻ったとき、あなたはどこにいたのですか」

「どこなのかわかりません。 私の知らないところです」

「そこは、どのようなところでしたか」

「橋の上でした。 空は晴れていて、ほぼ真上に太陽がありました」

「それはどんな橋ですか」

「どこにでもありそうな、ごく普通の橋です。 センターラインの引かれた車道があって、その両側に歩道があって、 欄干がありました。 アーチがあるわけでもなく、吊橋でもなく、 とても単純な構造でした。 車道と歩道のあいだに、 一定の間隔で照明のポールが立っていました」

「その橋の上から、どのような景色が見えましたか」

「景色と呼べるようなものは何も見えませんでした。 靄が雲海のように広がっているのが見えるだけでした。 橋の両端も、靄がかかっていて見えませんでした。 私は、欄干から身を乗り出して下を覗き込んでみました。 橋を支えている柱は、百メートルほど先までは見えていましたが、 それよりも下はやはり靄に包まれていました」

「橋の両側に何があるか、見に行きましたか」

「私もそれを知りたいと思いました。 私は橋のたもとを目差して歩きました」

「そこに何がありましたか」

「橋のたもとに何があるのかということは、結局、 わかりませんでした。 そこへたどり着く前に、 もとの世界に戻ることができましたので」

「先ほど、照明のポールが立っていたとおっしゃいましたが、 それは夜になると点灯するわけですね」

「それはわかりません」

「どうしてですか。 あなたは、発見されるまでの五日間、 ずっとその橋の上にいたわけでしょう?」

「夜にならなかったからです。 太陽は常に真上にあって、その位置から動きませんでした」

「喉が渇いたり空腹を感じたりしませんでしたか」

「猛烈に喉が渇きました。 太陽が真上から照り付けていましたからね。 しかも、何時間も歩き続けましたから空腹感も猛烈でした」

「しかし、救出された直後のあなたは、 精神的には極度のダメージを受けていたものの、 肉体的にはそれほど衰弱していませんでした。 それはなぜですか」

「歩道の上に段ボールの箱が置かれていたので、 開けてみたら水と食料が入っていたのです。 そのような箱が一定の間隔で歩道の上に置かれていました」

「間隔というのはどれくらいですか」

「歩く時間で言えば五時間ぐらいです」

「水と食料というのは、 具体的にはどのようなものなんですか」

「水は、キャップの付いた金属製の容器に入っていました。 食料は三個か四個の缶詰で、缶切りも箱の中に入っていました。 缶詰の中身は、 肉だったり魚だったり果物だったりとさまざまでした」

「段ボールの箱とか缶詰とかに、 文字は何か書かれていませんでしたか」

「いいえ。 その世界で文字というものを見た記憶はありません」

「どのようにして、 その世界からこの世界へ戻ってくることができたのですか」

「橋から跳び降りたのです」

「なぜ、跳び降りようと思ったのですか」

「なぜでしょう。 はっきりとは思い出せません。 出口を発見して、それに向かって跳び降りたのか、 それともただ単に自殺しようとしただけなのか、 精神的に疲れ果てていましたから、 そのあたりの記憶はものすごく曖昧なのです」

「橋から跳び降りてから発見されるまでのあいだの出来事で、 記憶に残っていることは、何かありますか」

「硬い床の上に横たわっていた記憶があります。 そのとき、ふたたび喪服の女性を見ました。 後ろを向いていて、遠ざかっていくところでした。 呼び留めようと思ったのですが、気力を失っていたために、 そうすることができませんでした。 その人の姿が見えなくなったあと、 私は強烈な睡魔に襲われて眠りに落ちました。 そして、この病院で目覚めたのです」

報告書を読み終えた歳玄は、 異世界に置き去りにされた人間が味わった恐怖を 想像しようと試みた。 自分の想像が正確なものだという確信を持つことはできなかったが、 自分もまた、 同じ状況に置かれたならば自殺という選択肢を選ぶかもしれない、 と歳玄は考えた。

妖怪に関する報告書を歳玄が読んだ日の翌日、 琴繭についての情報を収集するために放った式神のうちの一匹が、 新たな情報を携えて戻ってきた。

午前二時。 螺旋神社が建てられている地下空間は、 わずかな照明が届く範囲を除いて闇に包まれていた。 拝殿の背後には螺旋神殿の一部分が 巨大な曲面の壁としてそそり立っているはずだが、 そこにはただ暗黒が広がっているだけだった。

歳玄は拝殿の裏側の闇へ足を踏み入れ、 赤色のフィルターで光を抑制した懐中電灯のスイッチを押した。 赤い光の円錐の中に、 直径三メートル、高さ五十センチほどの円柱が浮かび上がった。 円柱の上部は木製の板で覆われている。

円柱を覆っている板の一部分は正方形の扉になっていた。 歳玄はその扉を開き、懐中電灯の光をその中へ向けた。 光の中に姿を現わしたのは深い竪穴だった。 金属製の梯子が底に向かって続いている。 歳玄は懐中電灯をベルトに固定したのち、 梯子の強度に注意を払いながら、一段一段、 慎重に竪穴の底へ降っていった。

琴繭についての情報を収集するために放った式神のうちの一匹が 新たな情報を携えて戻ってきたのは、その日の朝のことだった。

式神が発見したのは、 蛾鱗璽城住民福祉課の電脳空間の片隅に保管されていた、 その課の職員によって書かれた報告書だった。 報告書には、 螺旋神社の境内に嬰児が遺棄されているという 保安局からの通報を受けたその職員が、 遺棄された状況を調査するとともに、 その嬰児を城営の児童福祉施設へ収容するための 手続きを執行した経緯が詳細に記されていた。

螺旋神社の境内に嬰児が遺棄されていることに 最初に気付いたのは、 神職の一人だった。 境内にある枯れ井戸の中から赤ん坊の泣き声が聞こえる、 という神職からの通報を受けて、 保安局の職員と消防局のレスキュー隊が現場へ急行した。 報告書を書いた住民福祉課の職員も、 保安局からの連絡を聞いて現場へ駆け付けた。

嬰児は枯れ井戸の底に丸裸で遺棄されていた。 嬰児が毛布に包まれて病院へ搬送されたのち、その嬰児の身元、 あるいはその嬰児を遺棄した者について 何らかの手掛かりを得るために、 枯れ井戸の底が隈なく調査された。 しかし、井戸の底にはいかなる遺留品も残されていなかった。 足跡がいくつか残されていたが、 それらはすべて レスキュー隊の隊員のものであることが確認された。

その報告書を読み終えたとき、歳玄は、 琴繭が遺棄されていた枯れ井戸の底を 自分も見ておくべきだと思った。 なぜそう思うのか、自分自身にもその理由は判然としなかった。

井戸の底は、押し固められた土でできていた。 表面は湿り気を帯びていて、 懐中電灯の光を浴びてぬめぬめした光沢を放っている。 歳玄が歩くと、かすかな足跡が残った。 しかし、彼自身の足跡のほかに、 誰かがここに立ったことを示す痕跡は何も残されていない。

床面の検分を終えた歳玄は、懐中電灯を周囲の壁に向けた。 壁は、 四角に切り出された石材を 積み重ねることによって作られていた。 床と同様に、壁もまた湿り気を帯びている。 微量の水が絶え間なく流れ下っている箇所もある。 石材の表面は粗いままで、その一部分は苔に覆われている。

歳玄は、 床面に接する高さにある石材のひとつに かすかな線条が刻まれているのを発見した。 人為的に刻まれたものらしい。 文字か、あるいは紋章のようなものと思われたが、 意味はわからない。

線条は、苔に覆われた部分へも続いていた。 歳玄は、苔を取り除くために線条に沿って指を走らせた。 そのとき、石材がかすかに動いたような感覚が指に伝わってきた。 そこで彼は、手の平を石材に当てて力を加えてみた。 すると、それほど大きな力ではないにもかかわらず、 石材は壁面の奥に向かって移動し、 それがあった場所に黒々とした空間が残った。

歳玄は、石材の移動によってできた空間の中に潜り込み、 石材をさらに奥へ押しながら懐中電灯で周囲を照らした。

石材の移動によって開いた穴の向こう側は、 石材で囲まれた直方体の空間だった。 床の一辺は約五メートル、天井の高さは三メートルほどだ。 井戸とは反対側の壁に、高さ二メートルほどの長方形の穴がある。 歳玄は立ち上がって、その穴の向こう側へ歩を進めた。

そこは階段室だった。 石材で造られた階段が下へ向かって続いている。 上へ向かう階段はない。 この階段を降ってみよう、と歳玄は思ったが、 かすかな不安を感じて背後を振り返った。

そこには壁があり、井戸の底に通じている穴がある。 穴の手前の床には、自分が移動させた石材がある。 その石材が自力でもとの位置に戻り、 侵入した人間を閉じ込めてしまう可能性はないだろうか。

歳玄はズボンのポケットから携帯型の端末を取り出して 電源を入れた。 スクリーンの上にさまざまなメッセージが次々と現われた。 それらのメッセージは、 その端末が間違いなく電脳空間に接続されていることを 物語っていた。 万一、この地下空間に閉じ込められたとしても、 この端末を使って救助を求めることができる、と歳玄は考えた。

歳玄は階段を降り、ひとつ下の階に降り立った。 その階にも長方形の出入口があり、その向こうに部屋があった。 その部屋は、広さも形も上の部屋と同じだった。 階段は、さらに下の階へ続いていた。 歳玄は階段を降り続けた。

それぞれの階にある部屋を検分しながら、歳玄は、 地表からここまでの深さはどれくらいだろうかと考え、 そしてかすかな不安を覚えた。 螺旋神社が建てられている空間の深さ、井戸の深さ、 そして井戸の底からここまでの深さを合計すると、 六十メートルを越えているのではないだろうか。

もうひとつだけ下の階まで降って、 そこに何もなければ引き返そう、と歳玄は思った。 そして降り立った階にある部屋の中央に立ち、 懐中電灯の光を周囲の壁面に向けた。 これまでに見てきた部屋との相違点は何もない。

歳玄は階段を昇り、ひとつ上の階へ戻った。 そして、さらにひとつ上の階へ戻るために階段を昇ろうとしたとき、 その階段を照らしている光が 自分の懐中電灯のものだけではないことに気付いた。

歳玄は懐中電灯を消して階段の上方を見た。 上の階から淡いオレンジ色の光が漏れてきている。 彼は階段を昇り、 その階にある部屋の中をのぞき込んだ。 そして、その部屋に妖怪が立っているのを見た。

妖怪は、周囲の石材から発せられたオレンジ色の光に包まれて、 無言で佇立していた。 細面の女性だ。 見かけ上の年齢は二十代後半というところだろうか。 保安局に保管されていた報告書には、 妖怪は喪服のようなものを着ていたという証言が記載されていたが、 歳玄の目の前に立っている妖怪が着ているのは、 喪服ではなく水干だった。 妖怪は、鋭い視線を歳玄に向けているが、 口を開こうとする気配はない。

ここにいては危険だ、という予感が歳玄の意識を埋め尽くした。 彼は妖怪から視線を振りほどき、全速力で階段を駆け上がった。 しかし、昇ることができたのは、 妖怪がいる階からその上の階へ上がる階段の途中までだった。 妖怪のいる部屋から漏れてくるオレンジ色の光が不意に消減し、 歳玄の周囲は闇に閉ざされた。

消減したものは光だけではなかった。 歳玄の足の下に、彼が踏みしめることのできるものは何もなかった。 彼は、自分が深淵に向かって落下を開始したことを知った。

意識が戻り、恐る恐る目を開いた歳玄が最初に見たものは、 白い光を放つ照明器具が埋め込まれた天井だった。 彼は床の上に仰臥していた。 体のどこにも、痛みを発しているところはない。 彼は上体を起こした。

歳玄は、ホテルの廊下のような場所に自分がいることを知った。 左右の壁には一定の間隔でドアが並んでいる。 しかしその場所は、 普通の建物にはない強烈な違和感を与えるものだった。

違和感の原因はすぐに判明した。 廊下の行き止まりが、 肉眼では確認できないほど遥かな距離にあるためだ。 あるいは行き止まりというものは存在しないのかもしれない。 上体をひねり、廊下の逆方向も確認してみたが、 やはり行き止まりは見えない。

歳玄は自分の所持品を点検してみた。 懐中電灯も時計も端末も、身に付けたままだった。 時計は、彼が妖怪と出会ってから五時間後の時刻を指していた。

歳玄は端末の電源を入れた。 端末は、 電脳空間から発せられる電波を聞き取ろうとして耳を澄ませた。 しかし、数秒後に、 それが空しい試みであることを告げるメッセージを表示した。

廊下の両側に並んでいるドアに、 部屋の番号を示すものは何も取り付けられていない。 歳玄は、最も近い位置にあったドアのノブを回した。 鍵はかかっていなかった。

ドアの向こうは、 ホテルのツインルームと言って十分に通用する部屋だった。 部屋の奥に窓があり、レースのカーテンがかかっている。 歳玄はカーテンを開いた。

窓は無色透明な物質でできていた。 その物質は、肉眼で見た限りではガラスにしか見えなかった。 しかし、手で触れてみると、 その感触はガラスとはかすかに異なっていた。

窓の外は光に満ちた空間だ。 青空の下に、靄のようなものが雲海のように広がっている。 歳玄は窓を開いてみようと考え、 窓枠の周辺を念入りに観察してみた。 しかし、窓を開く方法について、手がかりは何も得られなかった。 彼は窓を開く試みを断念して、観察の目を部屋の内部に向けた。

作り付けのテーブルの上に電話機が置かれている。 その表面には十数個のボタンが並んでいるが、 それらのボタンの上にはいかなる文字も表示されていない。 歳玄は受話機を持ち上げて耳に当ててみた。 しかし何の音も聞こえない。 それぞれのボタンを一回ずつ押してみたが、変化はなかった。

テーブルの横の床に、冷蔵庫に似た白い箱が置かれている。 歳玄は箱の扉を開いた。 期待に反して、その中は空だった。

歳玄は次にユニットバスの中へ行き、蛇口をひねった。 無色透明な液体が勢いよくほとばしった。 歳玄は無色透明な物質で作られたコップをその液体で満たし、 照明器具が放つ白い光にそれをかざした。 一点の濁りもない。 彼はコップに鼻を近付けて匂いを嗅ぎ、 さらにその中の液体を口に含んでみて、 この液体は水に違いないと結論を出した。

飲み水についての不安は解消されたが、 食糧の存在はまだ確認できていない。 しかし、食糧もかならずどこかにあるに違いないと歳玄は推測した。 保安局の報告書は、 その推測の根拠として十分に説得力のあるものだった。

歳玄は、水の入ったコップを持ったまま廊下に出て、 自分が横たわっていた位置に、 目印としてそれを置いた。 そして、廊下の反対側の扉を開いた。 その扉の中は、 最初に見た部屋との相違点がまったく見当たらない ツインルームだった。 冷蔵庫が空だという点も同じだ。

歳玄は次に最初の部屋の左隣の部屋へ行き、 次はその向かい側の部屋を探索した。 そして、それ以降も同じ順序を保ちながら探索を続けた。 しかし、探索した部屋の数が二十を超えても三十を超えても、 食糧を発見することはできなかった。 彼は、自分がここで餓死する可能性もあると考え始めた。

食糧を発見したのは四十二部屋目だった。 それは、冷蔵庫の中ではなく、 救急箱ほどの大きさの箱に入れられて、 床の上に置かれていた。 箱の中にはフォークと缶切りと四個の缶詰が収めらていた。

歳玄は缶詰を開き、その中身をがつがつと口へ運んだ。 缶詰の中身は、肉、魚、野菜、そして果実だった。

食糧が置かれていた部屋の位置を示す目印として ドアの前に空缶を置いたのち、 歳玄はふたたび食糧の探索を開始した。 彼は、ドアを開くことなく、 部屋の数を数えながら廊下を歩いていった。 そして、食糧を発見した部屋を起点とする四十二部屋目からは、 部屋の内部にまで踏み込んで丹念に調査した。

次に食糧を発見したのは、 最初に食糧を発見した部屋から数えて七十二番目の部屋だった。 廊下の片側の部屋だけを数えれば三十六部屋目ということになる。 歳玄は食糧の箱をかかえ、 片側の部屋の数を数えながら廊下を小走りに進んだ。 そして三十六番目のドアを開いた。

期待したとおりだった。 その部屋の床の上には三個目の箱が置かれていた。 安堵感が沸き起こってくると同時に、 疲労と睡魔が重くのしかかってきた。 歳玄はベッドに倒れ臥し、そのまま深い眠りに落ちた。

目が覚めてベッドから起き上がったのち、歳玄は、 まずカーテンを開いて外を眺めた。 見えるものは相変わらず青い空と白い靄だけだ。 彼は食糧の箱のひとつを開いて、 ゆっくりと味わいながらそれを食べた。

食事が終わったのち、歳玄は、ベッドの上に座ったまま、 この世界から脱出するためにはどうすればいいのだろうかと考えた。 そして、天井裏へ昇るための入口か、 床下へ降りるための入口を探してみようと思い立った。

歳玄は、 三個目の食糧の箱が置かれていた部屋の前に空缶を置いたのち、 いくつかの部屋の天井と床を丹念に調査した。 しかし、 天井裏あるいは床下に通ずる入口を発見することはできなかった。 彼は、自分の中で焦燥感がしだいに成長しつつあるのを感じた。

猛烈な空腹感を感じた歳玄は、調査を中断して時計を見た。 前回の食事から九時間が経過していた。 彼は、空缶によって印を付けられた部屋に戻り、 食糧で空腹を満たした。

食事ののち、さらに九時間ほど調査を続けたが、 成果は皆無だった。 焦燥感は、耐えがたいまでに高まっていた。

食事と睡眠ののち、歳玄は、 天井または床を破壊することによって 天井裏あるいは床下へ行くことができるのではないかと考えた。 彼は、食糧が入っていた箱で、 さまざまな場所の天井や床を叩いてみた。 しかし、天井も床も、 人間の力ではまったく歯が立たないほど堅牢だった。

部屋の窓となっている無色透明の物質も、 堅牢であるという点では天井や床とまったく同じだった。 歳玄は、冷蔵庫に似た白い箱を持ち上げ、 窓に向かって渾身の力を込めてそれを投げ付けたのだが、 窓には傷ひとつ与えることができなかった。

そのような試行錯誤を続けているうちに、 歳玄の精神を支配していた焦燥感はしだいに薄らいでいった。 しかし、その代わりとして浮上してきたのは、 さらに厄介な感情だった。 それは、ほとんど恐怖に近い畏怖だった。

歳玄が送り込まれた場所は、 おそらく無限に広がっている空間である。 その空間には人工物があり、その人工物もまた、 無限に繰り返されてどこまでも続いている。 歳玄は、その空間や人工物の背後に存在する、 それらを造り出した者に対する底知れぬ畏怖に苛まれた。 そして、その畏怖は、絶望的な無力感を伴っていた。

第三捜神丸の船上で、典摂は、 蛾鱗璽城の妖怪は人間に恐怖を与えると語っていた。 自分は今、その恐怖を実際に体験しているのだ、 と歳玄は自嘲気味に考えた。